過去を逃れて


Amazonには売ってません。
※ネタバレはしてませんが、観終わってから読んだほうがいいです。
ジャック・ターナー(1947)。
夜間、車を走らせながら過去のフラッシュバックが始まるあたりでは、おお教科書通りのフィルムワール的な展開、だから古典なのかなと思っていた。
しかしロバート・ミッチャムとジェーン・グリアの二度目のキスのあたりから、あれっと思う間もなく、前半のゆるいテンポと変わって、プロットが様々な思惑を含みながら複雑になり出し、ものすごい勢いで進み出すと途中で一度完全に見失ってしまった。それはシナリオが酷いからではない。反対に精緻すぎるからこちらがついていけなかっただけだ。ラストに向けて走り出していよいよ加速して頂点に達すると叩きつけるように終わる。ラストシーンでは、えっそういう終わり方をするのかと、すべてをひっくり返して、観客の期待と物語への同化を嘲笑うかのようにTHE ENDの文字が現われて思わず戦慄する。
呆然。
なんでしょうね、傑作というのは適当な言葉じゃない。RKOの低予算B級当時流行のフィルムノワール枠でこんな映画が普通に出てきたことがショック。というと大袈裟だけど、またフィルム・ノワールの定義なり、ターナーへの想いがガラガラ崩れていく。それはある意味快感だけど。
原作・脚本のジェフリー・ホームズはダニエル・メインワリングと同一人物。2年後に*1ドン・シーゲルの「The Big Steal」も書いている。主役のふたりも同じ。もちろん製作も同じくRKO
メインワリングのシナリオが見事というか挑戦的。これは凡庸な監督には撮れません。単に不自然なこじつけ映画にしかならない。というのはメインプロットが登場人物たちの心理の飛躍から発想されているがその飛躍が尋常じゃない。彼らの感情の変化を納得できるように描かないとすべては失敗する運命にある。フィルム・ノワールっぽい作品と本当のジャンル映画の傑作の違いはここにある。『三つ数えろ』『黒い罠』を想起すればわかりますよね(ああ、そういう古典を持ち出すのは反則ですな)。
ジャック・ターナーはこの挑戦を受けて演出した。それは悲劇の舞台劇のようにだ。さりげなく動きは様式化される。ミッチャムは決してトレンチ・コートを脱がず、それが彼の役割であるかのように、ことあるごとにタバコに火をつける。カーク・ダグラスは決して本性が見えない悪役をにこやかに演じ、恐ろしさを最後に見せつける。その暴力の瞬間に観客は飛び上がる。
それはターナーが画面外の演出を徹底しているからだ。肝心な部分は画面から外して舞台裏で行われ観客に想像させる。そのためにちょっとした暴力が登場人物の間接的な感情の発露に直結するドラマが生まれる。
そしてファム・ファタールなんていう通俗語を越えている、ジェーン・グリアの空虚だけど確実にそこにいる存在感は、いつのまにかすべてを司るデウス・エキス・マキナと化す。
また演劇性は、シーンの出入りの多くがドアを通じて行われることでも強調される。丁寧に役を演じセリフを言って去る。この繰り返しがひとつひとつ時間と空間を一致させ濃密にして区切りをつけることで感情は繋がるが、シーンは切り刻まれていく。
こうして運命による悲劇は必然としての悲劇へと向かうことになる。二度目のキスのときミッチャムの顔にキャメラは切り返さない。ここで観客は完全に感情を宙ぶらりんにされる。ただ舞台の上で起こる悲劇を見守るしかなくなる。
なぜか聾唖の少年を配するところなど、それが物語と絡まないのが最後に重要な役割を果たす部分は道化を必要とした古典劇の体裁じゃないだろうか。ラストの解決はそれまでの曖昧な断片が一気にカタチになり新たな意味を成し、これ以上無い高揚感を与えてくれる。
結局これはフィルム・ノワールの古典ではなく、映画芸術の古典だと思う。
撮影のニコラム・ムスラカは、ヒッチコックの『汚名』を撮っている。今回は、昼間のシーンの多くはアメリカの大自然の景色をロケしている。アンセル・アダムスの写真のように美しい風景だ。揺るぎないか構図がターナーの演劇的な舞台を支えフィルム・ノワールに最適だ。と言っても実は『キャット・ピープル』をはじめとする、ヴァル・ルートン製作のRKOホラーを支えたのもこの人じゃないか。
廉価DVDの画質は良好です。
痩身のロバート・ミッチャムが美男子。誰かに似ているなと思ったらベン・アフレックだった。アメリカで人気あるのはあの手の顔なのか。たしかこのすこしあとマリファナ不法所持で刑務所行きのはず。

*1:『ボディ・スナッチャー』『殺し屋ネルソン』とその協力関係は続くがそれは別の話