窓の下に裕次郎がいた
- 作者: 井上梅次
- 出版社/メーカー: ネスコ
- 発売日: 1987/12
- メディア: 単行本
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しかし、この本を読むとそれがひっくり返る。この人がいかにクレバーな職人だっただけでなく、プロデューサー的な視点を持った理論家だったかがよくわかる。決して無節操な映画人ではないことがわかる。
150本以上の映画と200本近くのテレビ映画を作った来た井上梅次(うめつぐ)は、1923年、京都に生まれる。高校は、マキノ雅弘、山中貞夫、内川清一郎を輩出した京都一商。慶応大学に進むが、学徒出陣で戦地に送られ、最終的に門司で輸送船に食糧を乗せる担当になる。自らのアイディアで、軍隊にいた優秀な人材をかき集め、海水から塩を作り、にがりと大豆で大量に豆腐をこしらえたり、南方から来た、燃料に使う材料だった砂糖の残りを使いジュースを作り、上官を驚かせる。人を集め動かすコツはここで学んだという。
戦後、銀行マンになろうとするが、先輩の内川清一郎に誘われ新東宝で助監督を経験する。内川は長谷川一夫の姻戚だったので、その縁で長谷川家に居候という貴重な体験をする。そのまま流れで無試験で新東宝に入社となる。その後入ってきた、試験採用組の助監督たちが持つ、文学論を振りかざす雰囲気に反発し、シナリオが書けなければ監督にはなれないと猛勉強する。その結果シナリオライターとして認められ監督昇進するが、数年で日活に移籍する。
当時は素人俳優を売り出すのに、まず文芸映画に出すのが安全な近道というのが常識だったという。だから石原裕次郎は田坂具隆の『乳母車』『陽のあたる坂道』に出たのだ。一方で井上は娯楽映画のスターとして育て上げる担当となる。『嵐を呼ぶ男』のヒット。そして日活が黄金期を迎えたのは周知の通り。月丘夢路との結婚後、日活を退社し、フリーとして各社で仕事をする。香港のショーブラザーズでは日本から多くの技術者を呼び集めたため、一時期所帯は50人を越えたという。
電気紙芝居と言われていたテレビには早くから興味を持ち、スタジオドラマを演出して競争相手を研究した。その結果、早晩映画はダメになると思っていたという。
「かつて活動写真というものが発明されたその瞬間において、芝居のお客は半分取られたと思うべきで、同じようにテレビという視覚の娯楽が茶の間に入った以上、飯を食べながら、酒を飲みながら、すべて“ながら”にして楽しめる以上、映画もまたその観客の半分を失った」
また大衆が豊かになったために映画がダメになったとも言う。
「昔から、不景気になると映画界はよくなった。かつての大衆は金がない、他人のプレーを見て楽しむしかなかったが、日本は豊かになった学生まで金持ちになった。もう他人のプレーを見て我慢する必要はない、自分でプレーできるのだ」
極めつけは、
「日本映画の娯楽映画に対する偏狭な認識が、テレビに対抗するために大画面と音響の力を利用した新しいジャンルの企画の障害なった(中略)日本映画界は、文芸映画と娯楽映画をはっきりと区別して、文学の影響をうけた映画を上質とした。かつての世界の名画は、「映画は大衆のもの」というはっきりした観点のうえで、娯楽を芸術性で高め、映像美というメカニズムを通じた新しい芸術分野を確立したものであったのに、日本映画は映画独自のジャンルを忘れて文学に従属してしまった。だから、「スペクタル」はできない(中略)もちろん資本が小さいからスペクタクルは作れないのだが、企画の幅が狭いからマーケットも小さい、世界に売れない、だからますます資本が細る。たがいに原因となり結果となって、大仕掛けな娯楽性とコクのあるドラマの融合した作品ができずに、今日にいたってしまったのである」
テレビだけではなく、70ミリ映画についても勉強にハリウッドへ行ったという。ある日、大映の永田雅一から呼び出しがあり、ふたりだけで会った。70ミリ映画『釈迦』で当てた永田は「わしは映画が好きなんだ。映画だけでやっていきたい。(中略)年二本70ミリを作って十億儲ければ一割配当しても充分にお釣りがくるんだ」と言ったが、井上は冷静に、日本には70ミリの素材はない。いまある二階建ての映画館を壊して、ビルにして映画館を入れるという思い切った発想で製作を支援する体制をとっていかないとダメだと進言する。結果は見ての通りだ。
プロデューサー的な現実家の感覚と、映像職人としての冴えが同居している他にはいない映画人の姿が見えてきます。早撮りの職人といってもこじんまりとした江戸職人じゃなくて、あくまで国際標準を目指すショー要素が盛り込まれたスペクタクル志向。このあたりがどこから来るのかがちょっとわからなかった。予算が無くてもできませんと云わずにどこまでも面白くなるためのアイディアを出す。江戸川乱歩シリーズはその集大成でもある。10時少し前にエロシーンを入れるとか視聴者を引き付ける貪欲な仕掛け、あのフォーマットは未だに崩れていない。
香港映画時代、のんびりとしたペースでなかなか進まない撮影準備にイライラしていた時に、俳優たちを相手に半ば時間つぶしに開いた演技教室ではこう述べている。
私の信条である「平凡にして非凡」も筆談で説明した。
「通俗映画を高い知性と教養で描いてこそ面白くなる。自分の知恵を売るような難しい言葉を使わず、さりげない人生の真実にふれてこそ映画は傑作になるのだ。芝居もそうだ、わざとらしく演じるな。自然にやれ」
20年以上昔の本だけど全然ずれていない。益々興味が沸いてきました。ほかにもスターや撮影のエピソードが満載されています。
だれかロングインタビューしてくれないかな。最近の映画人へのインタビュー本は面白いけど、なんかインタビューしやすい人にばっか聞いている気がするんだよね。ぜひ記録として残して欲しいです。
本当に、実績があり、各撮影所や映画人のことを知っていて、娯楽映画のノウハウを理論的に語れる最後の伝説の人だと思う。