小津安二郎周游

小津安二郎周游

小津安二郎周游


生誕百年ということで、神格化に神格化が重ねられている小津だけど、この本を読まずに語るのはモグリとしか言えない!そんな細かい趣向が山盛りの内容です。いわば小津をめぐるミステリーというスリリングな構成に唸る。いわゆる小津神話をもう一度徹底的に資料を掘り起こすところから作業ははじまる。
たとえば、海外から来た小津ファンが必ず訪れる、鎌倉円覚寺にある墓碑に刻まれた「無」という文字は無常の世界を描く小津が気に入っていた言葉である。−−−−−−答えはダウト。死後に兄弟が集まり相談して、戦地の中国から送られてきた手紙に書かれていた文字が「無」だったので故人の好みの文字だろうと推量して決めたということ。
その他にもいくつかのキーワードが出てくる。「野戦瓦斯隊」「ボクサー」「非常時と東京音頭」「月は上りぬ」などなど。著者は資料を紐解きながら、当時の時代や映画史も同時に解読して、小津のその時代の中での位置づけ、松竹や映画界での位置づけを再確認する。そして総体でいままでそこにあるのに見えていなかった、巨匠小津の姿を、時代に生きるひとりの人間であり映画監督を職業とした男として、彼の内面に迫ろうとする。そこに現れたのは、したたかであり、偶然も作用して(もちろん才能はあるが)、日本映画の一時代を担った人物が浮かび上がる。
そしてこれははじめてだろう、いままで誰も問題にしていなかった彼の従軍体験がどのような影響を与えたかだが、ドキッとするくらいの事実が発見されている。またいかにして大正のモダン・ボーイが長屋の喜八ものへと作風を変え、戦後は山の手のホームドラマを何度も作るようになったのか、その変化の背景、ミッシング・リンクが見えてきて、いままでバラバラだった作風がなるほどというくらい繋がってくる。

当たり前のことだけど、小津は1930年代から日本映画の巨匠であり、興行成績はいまひとつだが、往事のインテリ層(「大学は出たけれど」な人たち)にだけ受ける一貫して評価は高い監督であり、決して彼が理解されないとか不遇の作家であったことはない。もっと言えばそのローアングルだから評価されたわけでもない。作品が同時代の人間に訴えるものを持っていたということだ。一時期いかに小津が日本的でないかを、ドナルド・リチーの本を引き合いにして語られたことがあったが、「監督 小津安二郎」のような思いつきのキーワードだけで、いかに非日本的だから本当のところは理解されず、逆に汎世界的だから時代を越えて偉大なのだと書かれた本は、評論としてはちょっと面白いがあまりにも誘導的だと思う。

著者の姿勢はそれと反する。いかにして映画と映画人と観客が同時代を生きたか、その証を平たく資料を集め解読していく。そこから現代に通ずるものを見いだしていく。お陰で読み終わると関連した歴史の本や別の映画の本を読みたくなる。そんな遠近感の広がりを持っていて、読み手を泳がせてくれる。