アカルイミライ

Date: 2003/09/05(Fri) 01:45
ヴィデオにて。
ごめんよ、わかってて観る私がすべて悪いのです。しかし安い映画だなあ。その安さを隠そうとも努力しないところが、客をナメとんのかという代物。
すごい低予算というのはもわかるけど、そのために同時で回して、アップ用にDVの画をはめ込むというのは如何なもの。一体全体どこにカネがかかっているのかわからん。レンズに水滴がつくようなカットをNGにもせず、人留めのスタッフの映り込むタイトルバックを延々と流したりするのはどうなのかねえ。撮り直しもせずに、そんなところで時間を稼いでみても仕方ないのに。ビデオは回してなんぼのものだろうが。
これなら16mm撮りでブローアップしても、フィルムレコーディングとカネは変わらんと思うんだけど(まあキャメラ、テープ、ポストプロダクションがタダというのならハナシは別だが)。
レンタル・ビデオで観てもキタナイ映像だなあ。劇場で観なくて良かった。

素晴らしく陳腐で退屈で抽象的で唐突で、登場人物が自分の思っている観念と感情をセリフで説明してくれるしてくれるシナリオ。「君たちを許す」ってなんだよ。
アラン・レネかと思ったよ、ホント。
相変わらずリアリティが無いよねえ。刑務所でバイト仲間が接見できたり、椅子や○○があったり(ストーリーばれになるので書かないが)、百歩譲っても、2時間サスペンスじゃプロデューサーに絶対に突き返される都合の良いウソが多すぎ。アイディアが足りないというしか無い。それを回避するのがプロの仕事だろうが。
ニンゲン合格』とおなじく平坦な筋の運び。普通のプロデューサーだったら、時間をバラバラにしてサスペンスを中心に全体を組み直すと思う。最初の10分で客は帰るよ。

あと私はオヤジだけど、大学、高校生がこれを観てどう思うのかを知りたいね。こんな風にサラリーマン週刊誌のように、断罪されて腹立たないのか?

あれでしょ、最後の藤竜也は、オダギリジョーが歳を取った姿でしょ。前のシーンでは○○なので、でなきゃ辻褄が合わない。

象徴はあれこれ解読するのは馬鹿馬鹿しい(というか破綻している)。
ただ今回観ていて、黒沢清映画の「指示する者」と「指示される者」の関係で物語を動かそうとする構図がはっきりしてきた。
「指示する者」は虚ろだがカリスマ性、誘惑する力があり、世界の法則を変えようとするが、自滅するマッド・サイエンティスト。「指示される者」は、だいたいがまじめで無垢な学徒。で最後に彼が指示する者を引き継ぐ。平行して彼らに反発して隠れて独自に世界の法則を解こうとする者たち(集団)がいて「指示される者」を誘惑する。彼らはだいたい最後までうまく絡まないので、途中で構図を読み解きながら観ていると物語がわからなくなる(そうでなくともか?)。
そして一番周縁にいたと思っていた「指示される者」が実は中心人物であったというのがオチなわけで、彼らの行動の規範は「指示する者」が「指示される者」から指示されるというのが、「指示する者」の「指示される者」への指示なわけで、そのように、どちらとも取れるダブルミーニングとして作ってあるので、彼らの論理の中で突如ヘンな方向に物語が進んだりするので注意がいる。
さらに複雑なのは、登場人物の役割が、なんの説明もなしに途中で突然入れ替わり、急に人格が変わってしまう。それは言い換えれば人物造形、性格設定をしていないから成り立つのだが。あるいは、みんな操り人形で、同じ人格だったりするからだったりもする。
まあ最後までその調子なので、当然観客にはカタルシスは訪れない。訪れるのは監督だけだ。

わかります?
つまり、コインを投げて勝負を決めるときに「表が出たら僕の勝ち、裏が出たら君の負け」と言っているようなものです。