クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲

映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
 01 原 恵一(熊谷ワーナーマイカル)

 30男は、女房子供を質に入れてでも観ろ。30女は舅姑を縛ってでも出かけろ。21世紀がこの先99年、なにもなくても、この映画があっただけで、この世紀は救われる。しかも、これはいま観ないとダメなんだ。永遠の名作っていうんじゃなくホント、ぼくらひとりひとりのために作られた映画なんだ。
 不覚にもなんども涙してしまった。映画を観るときには絶対にセンチメンタルな気分になってしまうものか。現実を離脱するために観に行くんだけど、こんなに 最後はどうにかなっちまうんじゃないかと思うくらい動揺した。あと30分長かったらもうどうなっていたかわからない。この時ほど、100分の長さでよかったあと思ったことはない。
 なんでこんなことを考えたのだろうか。ストーリーがあまりにはまりすぎていたことは確かだけど、それ以上のものを表現しようとしていたからじゃないだろうか。ものがたりはここには書かないのでみなさま、各自情報を断片的に集めること。
 「ノスタルジーは病気であるか」 とムーン・ライダーズの鈴木慶一が書いていたが、ぼくに言わせれば「不治の病」だと思う。なぜか。もし治療が完癒されるようなことがあれば、そのひとがそのひとでなくなり死んでしまうからではないか。「無意味な人生だったな」のひとこと終わってしまう。そんなことを抱えながら日々暮らして行くわたしたちは、あらかじめ宣告された死者のようなものではないだろうか。もちろん日々こんなことを思って暮らしている奴はいないんで、突如そんなことが降りかかる瞬間、ひとはその時の歳にかかわらず、はっとする経験をする。
 夕方になって、陽がくれようとしてまだ遊び足りないのに、みんな帰ってしまったとき。商店街のコロッケを揚げる総菜屋や、きらびやかな新製品であふれる電気屋の前を走り抜けたとき、 田舎道を自転車でほこりまみれになりながら全力疾走したとき、人ごみのなかで迷子になって心細い思いをしたとき。その時々の瞬間に揺れた感情があふれ、観ている自分を思いきり直撃する。
 この映画に仕掛けられた、ギャグでもありマジな設定におかしくってうんうんとうなずくしぶさがありすぎる。いつもながら悪役がいいのがこのシリーズの特徴でもあるけど、今回はすごすぎる。このネーミングには参ってしまった。しかも声優が、津嘉山正種(!)。この説得力の持っていき方はものがたりを信じさせようとする心意気を感じさせる。
 今回のキャラクターにつけた動きが、おざなりとか、デフォレメや様式化したりしているのではなく、過不足無く動いていることにも注目してほしい。まさに演技という形になっている。その細かさを観て。しんのすけが階段を駆け登るところは、一切手抜きをせず、全部手書きの動画だけで表現しているところも良く観て。久しぶりにおもいが乗っている画を観た。小堺、関根のコサキン・コンビのギャグも聞き逃さないように。あと、「国会で青島幸男が決めたのか」は赤塚不二夫のギャグだからね。
 余計なことを書くとしたら、これで原恵一は宮崎押井庵野を越えたというか、全然別の答えを出してくれたことに感謝する。 ここで描かれているのは、むやみに慰撫してくれたり免罪符でも言い訳でもない、ひとつの時代を生きていることをただただ感じさせてくれる<作品>なのだ。
 そんなことが次々に波状攻撃されて、どうにかなりそうになったとき吉田拓郎の歌が流れて、感情の堰が切れてしまった。いままで彼の唄をいいと思ったことないんだけど、うわっという感じでダイレクトに入り込まれてしまった。この映画の音楽のセンスも秀逸だね。
 こんな奇跡のような想いをさせて堪能できる映画はまずない。ぜひ劇場へ行って観てほしい。
さいごに、こんなに映画館で泣いてしまったのは、『超高層プロフェッショナル』を観て以来だ。約20年ぶりかもしれない。そのときは映画がよかっただけではなく、その日通っていた学校の同期生が自ら命を絶ったということを聞いたことも関係あったんじゃないかな。どっかで、生きていればなんかいいこともあるんじゃないか、というのが20年前のぼくの考えだったけど、そんなことはだれにも言えずに、映画館の暗闇でその映画に遭遇してしまった。整理できない感情をそのまま受け止めてくれたと思った。そんなことを思い出した。
 まあ、なにはともあれ、この映画はあなたのためだけにつくられたぜいたくな映画なことだけは確かなのだから。
 (角田)