シン・レッド・ライン

シン・レッド・ライン [DVD]
 The Thin Red Line 98 テレンス・マリック新宿ミラノ座)

 G島における攻防戦を描く作品を作り上げることを選んだ、テレンス・マリックには確たる映像のイメージが、イメージのみがあった。美しい映像を作り上げる作業は20年前に『天国の日々』で、既に完成させてしまった。次に作り上げるのは、 、「映像自身が美しく映画を語る映画」として存在できるかどうかの実験だった。美しい日没の寸前の農場の暖色の映像ならどんな陳腐な話でも受け入れられていく。そこだけが評価されたことでマリックは落胆して姿を消したのではないだろうか。
 20年後その正反対の条件、太陽光線の直射日光が、鋭い光を差し込み自然の力に委ねられたまま生い茂る緑の雑草と、対照に織りなす濃い黒い影のコントラスト、そして倒れ行く兵士の血と、砲撃の火、立ち昇る黒煙、白煙の世界。生と死が、夜明けから日没までの時間のなかで最大限に引き延ばされ、そのなかで生き延びるしかない兵士たち、ドラマは単純だ。饒舌な言葉と、兵士のモノローグと、断末魔の悲鳴は同等な一つの世界を型どるオブジェであり、要素だ。砲撃と銃声が感傷をかき消し、雑草を渡る風の音がスクリーンを覆いつくす。
 何も削ぎ落とさず、表現できるものは全てスクリーンに現わす。ものすごく豊かな映画なのです。興行的には惨敗するだろうし、誰もが沈黙して無かった事にしようとする映画だろう。
 しかし、観るのなら、画面に現れたイメージを全部吸収しながら観るしか観る方法は無いのです。全てを画面のイメージに晒して、途中で何かを決めつけて観るものではないのです。映像詩という楽な言葉がありますが、ここでは、 映像だけではなく映画全体を詩に変えようとする試みがなされているのです。しかも、50年以上前の戦場を舞台として。戦争映画を撮ろうとしていないとか、人物像が紋切り調だ、いや複雑すぎるとどちらでも解釈できるように曖昧さ(それこそ、戦争の不条理を体現したものではないだろうか)を構造的に持たせ、他の戦争映画が作り出す、スペクタルと残酷描写とは違う、監督自身が生み出すリアリズム世界を作りだしている。
 繰り返して言うが、戦争映画になっていないとか、退屈だ、という批評は的外れだ。これは、物語を語ることが映画という狭い考えを捨てさせ、映像とイメージの織りなす記録を映画という世界で表現しているのです。 映画の可能性をどこまで拡げられるかに挑戦している闘っている過激な映画なのです。
 多くのハリウッド映画が、物語とSFXとマーケティングに安住した、世界共通のパッケージ製品を提供している中、ハリウッドの持つ世界随一の技術を使い、全く別のものを作り上げていく確かな演出を堪能するべきなのです。画面の隅々まで、何十キロ先の立ち昇る煙にまで神経を使い構築する完璧な画面。丘を登る兵士を背後から狙うクレーンショットの動きの計算され尽くした完璧さに酔っていいだろう(こういう映画のメイキング本が世みたい)。
 終わらない悪夢のように続く、延々と続く戦闘シーン。そこには何のカタルシスもない。『プライベート・ライアン』が疑似体験なら、この映画は極限体験に置かれたもっと居心地の悪い体験を提供してくれる。普通の映画なら、進むストーリーも停滞して、誰が誰だか分からない登場人物達と雑草の茂みに延々と隠れていなければならないのだ。映画の中のリアリズムじゃなく、リアルな映画の記録、それが詩に昇華されていく過程を一緒に体験することなのだ。
 多分に文学性の未消化の部分はあると思うし、それほど効果を上げていないアイディアもある。典型的なフラッシュ・バックや、日本兵の描き方などは納得がいかないが(アメリカ兵の撃つ時は百発百中なのはおかしい)、映画の可能性を拡げてくれたことに、これがハリウッドで作れたことは大いに賞賛に値する。たぶん、また早すぎた映画を作ってしまったのだろう。
(角田)