実録テレビ時代劇史

実録 テレビ時代劇史

実録 テレビ時代劇史


副題「ちゃんばらクロニクル1953-1998」


著者はフジテレビのプロデューサー。先日放送していた、金曜プレステージ「鬼平犯科帳スペシャル〜一本眉〜」でもクレジットされてました。ちなみに脚本は野上龍雄、音楽は津島利章、監督は井上昭でした。


テレビが始まる昭和28(1953)年からほとんどすべてのテレビ時代劇作品について言及されており、しかもエピソード中心の現場の人間たちのドラマで構成されているので面白い。時代劇をリアルタイムではなく追体験している世代としては、その大きな流れ小さな流れ、ルーツがどこから来たのかがわかり、映画とテレビがどのような関係を築いてきたのか、それがいまどこに繋がっているかがわかって来て、テレビ史が立体的になってくるのが圧巻です。


過去の映画作品ばかり観ていると、「なんでこんなに面白いのに日本映画がダメになったのか」と思いがちだが、なんにせよ興行のピークと作品(スタッフワーク)のピークはずれるものだ。内輪で盛り上がり凝れば凝るほど、一般には受けなくなる悪循環は、いつの世も変わらないもので、誰が何をテレビに求めて、テレビがなにをどう応えたのかが見えてくる。


テレビははじめスタジオ生放送だった。観客動員の黄金期だった映画会社は五社協定で、スターを出演させない。だからテレビは自前でスターを作らなければならなかった。そのうちにフィルムを使ったドラマ制作がはじまる。しかし予算が無いし、人材もほとんどが素人だったので、その規模は映画とは比べものにならない。


後発のNET(現テレビ朝日)に資本投資をしていた東映は、昭和35年に35mmで山城新伍主演の「白馬童子」を制作する。山城の回想によると、当時東映スターによる野球大会が開かれ、映画スターたちが居並ぶ中、客席から最大の声援を受けたのが山城だった。その場に居合わせた社長の大川博は「テレビは馬鹿に出来ない」と実感したという。


そんなときに気を吐いていたのがNHK大河ドラマだった。昭和38年「花の生涯佐田啓二、翌年の「赤穂浪士」に長谷川一夫が主演する。「花の生涯」の最終回<桜田門外の変>では、東映の屋外に作られた京都時代劇のシンボル、いわゆる東映城のセットを借りて撮影をおこなった。一方で、フジテレビの五社英雄による「三匹の侍」がはじまる。リアリズムの大人の鑑賞に耐える番組であり、映画スター無し(丹波哲郎平幹二朗長門勇)で時代劇が出来たことが映画関係者にショックを与えたという。「三匹の侍」と「隠密剣士」は松竹と東映で映画化されるという逆転現象が起こる。


時代劇映画の不振と共に、映画スターと人材のテレビ進出がはじまる。いまは「水戸黄門」でお馴染みの制作プロダクションC・A・Lは、創立時には橋本忍菊島隆三小国英雄、井出雅人という黒澤組のシナリオライターが重役として名を連ねていた。その第一作になるシリーズ「剣」は、最初黒澤プロに持ち込まれていた企画だったという。『暴走機関車』の準備に入っていたために、新プロダクションとしてC・A・Lが設立されたのだという。「剣」には工藤栄一加藤泰中川信夫らが参加する。


その後、ビッグ・フォーのスタープロダクションの制作参入(中村、勝、石原、三船)によるゴールデンタイムの活況。時代劇のノウハウを持つ京都のプロダクションとの共同制作。主役の世代交代、市川歌右衛門片岡千恵蔵から、ビッグ・フォーを経て、北大路欣也松方弘樹里見浩太郎高橋英樹へと主役が変わる。一方では新しく、渡辺謙松平健が出てくる。


70年代前半の黄金期に数多くの時代劇が作られ、やがて映画でもさんざん使われた“ご存知”ネタが尽きていく。「木枯らし紋次郎」などのリアリズム、アウトロー時代劇も現われては消えていく。


80年代になると視聴率マーケティングにより時代劇は隅に追いやられていく。長寿なのは大いなるマンネリの水戸黄門などのフォーマットに従って、何時何分ごろチャンバラがあるか決まったもの、ホームドラマの体裁を取った保守的なものだ。「必殺」シリーズが長寿なのも路線変更のためだろう。もちろんそうでない野心的な試みもあるが多くが惨敗する。


それでも、いまの正月の各局の大型時代劇を見ると試行錯誤の末に、みごとに棲み分けができて定着しているのがわかる。


これまでの流れをみると、改めて時代劇映画が辿った短い黄金期と衰退に重なって見えてくるのが不思議だ。

時代劇専門チャンネンルで観たい番組がまたまたたくさんでてきました。