インプロ教育:即興演劇は創造性を育てるか?

インプロ教育―即興演劇は創造性を育てるか?

インプロ教育―即興演劇は創造性を育てるか?

「創造性」「独創性」という言葉が独り歩きしている。いまそれが「個性」の名のもとにビジネスに直結されて、あたかも特別な才能として顕揚されている。
果たしてそうなのだろうか?21世紀の新たな「優生学」的な考え方なのではないか?
一方で、誰もが過度に個性的を求めているように思える。しかし、外見を個性的に取り繕っていても、色んな情報やモノを持っていても、内面はあまりに没個性的ではないだろうか?それで満足しているのだろうか、一体なにを恐れているのか?
そんなことを考えているときにこの本に出会った。


本書では、キース・ジョンストンによってはじめられた「インプロ」という即興演劇を通じて創造性を高める方法論を紹介している。
「創造性」は一部の特別な人間だけに備わっているのではなく、誰でも「創造性」は学び、伸ばすことができる能力であり、子どもの頃は誰でも持っていたが、大人になり忘れられたものだ。いわば「大人は萎縮した子ども」だという。
ただし、こうも書かれている。

インプロは創造性をあなたに与えない。しかし、あなたの中にすでにある創造性を掘り起こす手伝いをする。


現代の社会では、芸術は自己表現だとする見方が主流である。芸術=自己表現=個性みたいなことも言われる。しかし――

一度、芸術が自己表現だと信じられると、個人は技術や、技術のなさだけではなく、単純に自分が何ものであるかということも批評される。


だから、多くの大人は心の底では「創造性」という言葉を恐れる。自分の考えなのに口から出そうとした瞬間に、「バカげたことだ」と自己検閲が入り沈黙してしまう。
その一方で「自分は個性的でなければならない」と思っているので、「独創的」と他人から云われるモノを買い漁る。
だが、そこにも罠が待ち構えている。

人は自分が独創的でないと評価されるのを恐れる。そして独創的なことを言おう、やろうとする。(中略)しかし問題なのは、何が独創的で何が独創的でないという基準を、すでに創造的と評価されている既存のものにおいているということである。


なぜそのようなことになったのか?それは学校教育のお陰だと言えよう。大人に気に入られるように「創造性」「独創性」を発揮するように求められ、それが正しい唯一の態度と考えてしまうようになる。そして大人の態度で、本来の自分の「創造性」を否定する。

物語を創造したり、絵を描いたり、詩を書いたりすると、思春期の子どもは広く批評にさらされる。なので子どもは「繊細」とか「機知のある」とか「たくましい」とか「賢い」とか、他の人の目の前に作り出そうとするイメージのように見せるためにすべて嘘をつかなくてはならない。


「創造性」を発揮することには、実は大人に対する反逆の態度というメッセージが隠されているのだ。大人は社会秩序の中に子どもをはめ込もうとする。子どもはそれを受け入れて良い子になるか、受け入れず落ちこぼれるかだ。
だから自分が大人になり「創造性」を求められると、緊張してうまくいかなくなるのは、子どもの頃に埋め込まれた無意識の思考パターンが身についているからなのだ。

最初に頭に浮かんでくるアイディアを否定するようになるのは、

最初のアイディアは、(1)精神病のようで、(2)卑猥で、(3)独創的でないからである。


インプロでは、舞台という安全な空間で、自分の中の子どもを解き放つ。そこでのルールはユニークだ。
「普通にやる」「頑張らない」「独創的にならない」「当たり前のことをする」「賢くならない」「勝とうとしない」「自分を責めない」「想像の責任をとらない」

私たちが考える「創造性」の、全力を尽くして髪を振り乱し難しい顔をして悩み抜いた挙句に生み出されるもの。という態度とはまったく逆だ。でもそれが伸び伸びとした子どもの態度であることも確かだ。

(中略)本来のアヴァンギャルドは、人まねではなく、自分たちが解くべき問題を解くだけで、自分たちがアヴァンギャルドであるかは気にしない。


論文を基に編集されているので冗漫な部分もあるが、アメリカで行われたワークショップの様子のレポートが詳細に書かれていて理解しやすい。著者が行った日本の大学での学生によるワークショップの様子と論考は、日本人ならでは若者ならではの感じ方がわかって面白い。
またインプロを導入した、CGアニメーション会社、ピクサー社の中にあるピクサー・ユニバーシティ(!)の学長へのインタビューが興味深い。