めくらのお市 地獄肌

なんと言っていいのかよくわからないんだけど、時代の裂け目に落ちたまま浮かび上がってくるはずのない継子のような映画だった。
松山容子の演技が盲目なのだけど、目を見開いたまままばたきもせず表情が無く、まるで日本人形が動いているようで怖い。そして「あははははは、あたしはめくらの賞金稼ぎさ」と公言して歩きまわっているのでさらに怖い。
でも剣戟のアクションの冴えは大したものです。朱塗りの仕込み杖で闘うのだが、殺陣も決まっているし、カット割りで逃げていない。
キャラクターが劇画原作のままなのか見事に薄っぺらい。今の時代なら正体不明でそのまま突っ走っちゃっていけるのだろうが、細かい部分が重たくて、急に女の幸せみたいな話に流れ堅気になったりして、途中から物語が失速する、…時代ですなあ。
その点では、松岡きっこの狂ったビッチなキャラがイイ(弱いけど)。できれば片目アイパッチだったりすると完璧なんだけどなあ。
あと近衛十四郎がカッコいいねえ。無精ひげ生やしているんだけど、存在だけでどんなアップでも耐えられるね。この映画はテレビのスターありきの企画だったのではないかな。
東映時代劇の大御所、松田定次ならではの確かな演出力は見られるが、一方で安直なズームアップや、シーン代わりにロングショットを使わないところに、テレビ演出の影響を感じる。あきらかにもうワンカット増やせばいいのになあという箇所が多々ある。セットや人物の数が少ないので低予算とはわかるが…。たぶんロケはそんなに好きではなく、セットでの芝居しか興味がなかったのではないかなあ。
60年代後半は、時代劇が終り仁侠映画にシフトしていく時代。時代劇はテレビに移り、一方で劇画が台頭してくる頃だと思う。劇画を映画に取り込もうという試行錯誤の試みはここではほとんど成功していない気がする。
特に時代劇映画の場合、歌舞伎のお約束が大きな存在であると思うのだけど、劇画の擬似リアリズム思考とはうまく融合していかない。定番の愁嘆場と残酷シーンがバランス悪く配置されるために、ドラマのカタルシスが訪れない。だからどうしても最後はいつまでも孤独な虚無の旅が続くことになる。その辺りが仁侠映画と微妙に違うところだと思う。
実は時代劇と劇画を繋ぐのが、マカロニウェスタンの世界なのかもしれない。ニヒルなヒーロー像。汚い格好の悪役たち。残虐。掘っ立て小屋と石切り場でのアクション。派手な音楽。この作品を観ているとすでにお定まりのパターンになっていることがわかる。だれが最初にマカロニウェスタンを時代劇に取り入れようと思ったのか知りたい。