硫黄島からの手紙

やはり二本あわせて観て正解だったと思う。時系列でいうと『硫黄島からの手紙』→『父親たちの星条旗』なのです。アメリカでの興行などの制約でこの順番になったのだろうが、これから観る方はこの順番で観る方が内容がより深く理解できると思います。
クリント・イーストウッドは“正義”の人だ。それは「裁くのは俺だ!」という意味ではない。「正(マサ)ニ義ナリ」という意味だ。信じるもののために真っ直ぐに貫く、それが状況に反していても、時流に沿っていなくても構わない、他人はそれを反動的だ、アウトローだ、遅れている、反社会的だ、不適応だ、と言う。言いたいやつらには言わせておけばいい。彼らが歩む道は決して明るいものではないかもしれないし、賞賛を得るとも限らない。いや反対に不愉快だと石を投げられるものかもしれない。しかし彼らは行く。運命というまやかしは信じない、まっすぐに歩き続けるだけだ。他人が歴史があとでどう判断しようと知ったことじゃない…。
70歳を越えて、円熟でもなく、ほとんどタッチだけで確信をもって描ききる枯れた演出ができるなんて。年を取ると身体が動かずどっしりとした作品になりやすいものなのに。
音楽、絵画、演劇に比べて、映画は若さと勢いが特権的に語られる芸術だけど、そんな常識を覆してくれる瑞々しさ。しかも日本人以上に見事な日本語映画を作り上げるのだから。しかも昔の東宝東映調の延長でなく、今の視点を持った日本映画だ。
二部作なので日米の同世代の俳優たちのどちらからも等分に演技を引き出してきている。だから日米どちらも公平に見て、それほど役者の演技力には差がないと思う。そんなことも見えてくる。
力まない、しかしダラダラではない、本当の自然体な演技の日本映画が観たかったので、それだけでも満足。
それにしてもケンさん!いまやケンさんと云ったら渡辺謙だねえ。あの海の向こうを見る主観カット、「硫黄島はまだ日本の領土か」のセリフには背筋が震えた。劇のセリフ以上に、この激戦の後今日に至るまで一本の歴史の線で繋がって来るのがわかるからだ。かれは水平線の向こうになにを見たのだろうか。イーストウッドもああいう主観カットをバランスが悪いからか止めていたはずだが、それでも入れたところに本気を感じる。
二宮クンの役どころは難しく、主役と脇役の両方を兼ね備えないとできない。寅さん以前の渥美清ピラニア軍団からテレビの主役級になる川谷拓三とかが演じる役だよ。チンピラと愛嬌が同居してしかも最後まで出る主役クラスの巧さがないとならない。脚本の巧みさもあるが、大健闘だと思う。テレビや日本映画だと年相応な役しか回ってこないが、それ以上の背伸びした役をこなしていたよ。できるんだよね、やれば。
モノを食べる音、ウィスキーを啜る音が印象に残ったのだけど、そういう音って消すよね?最近聞かないような気がしたから、思い過ごしかな。


父親たちの星条旗』は、あの激烈な戦場こそが生の真実で、いまの生きている感覚が虚妄だという、言っては行けないことを言った作品ではなかろうか。生きている自分たちが幽霊である証としての地獄めぐり(全米巡回)。うーむ考えすぎかな。