アニメーション日中交流記 持永只仁自伝

アニメーション日中交流記―持永只仁自伝

アニメーション日中交流記―持永只仁自伝

NHKのドキュメンタリー「中国映画を支えた日本人 〜“満映”映画人 秘められた戦後〜」を見たときに突如、人形アニメーションの映像が流れ監督に持永の名前が出てきて大いに驚いた。そしてこの自伝を読んだ。日本と中国を行き来した一人の骨太の映画人の姿が見えてきて、そのスケールの大きさと人間としての魅力に唸ってしまった。
両親の仕事の関係で幼いときから何度も日本と満州を往復してきた著者は、生来の手先の器用さと絵の上手さから、漫画映画の世界に進む。戦争がはじまり海軍陸軍の注文作品を作ることになる。「桃太郎の海鷲」にも参加した。
ふたたび満州に渡り満映に参加するもすぐに戦争は終わる。内田吐夢らとともに東北電影制片廠の建設に携わる。やがて中国最初の人形アニメーションを作り、中国人技術者を育てるようになる。中華人民共和国建国後は上海に行き上海電影制片廠に合流する。以後ここが中国アニメーションの拠点となる。昭和28年、持永は帰国後、CMを作りながら一方で自主製作を続ける。『瓜子姫とあまんじゃく』『五匹の小猿たち』『ちびくろさんぼのとらたいじ』が代表作。
東映動画から内田吐夢を通じて「新しいステージを提供する。必要な機材は整備するから全スタッフで来ないか」という申し入れがあったのだから、そのレベルがわかるだろう。
しかし人形アニメーションは時間がかかる。製作会社の赤字解消のためにアメリカの短篇アニメの下請けをする。「アニメーションのギャグ世界」に書かれた『マッド・モンスター・パーティー』はこの頃の作品。森卓也がこれらを高く評価するのに対して、持永があまり書いて欲しくない仕事だったというのが、本書を読んでよくわかった。
作品としての出来が良くても、民族の誇りや自主性を放棄した仕事、後身を育てることのできない仕事は、中国でゼロからすべてを作り上げてきた彼にとって満足の行く仕事ではなかっただろう。
その後も中国通信社に入り中国との往復をしながら、中国アニメーションへの指導を続けた。80年代のはじめにはじめて日本に紹介され、みんながその出来栄えに驚いた『ナーザの大あばれ』は持永の愛弟子たちの作品だったのだ。