江戸のバガボンドたち 「通り者」〜順わぬ者たち〜の社会史

江戸のバガボンドたち―「通り者」順わぬ者たちの社会史

江戸のバガボンドたち―「通り者」順わぬ者たちの社会史

面白すぎて、どう書いたらいいのか分からないまま、半年近くに放って置かれたわたしにしては珍しい本。ただただべらぼうに面白い好書なのです。
地方、特に江戸(東京)近郊に住んでいてクルマを走らせているとふと思うことがある。
「この景色って数百年前から変わっていないんだろうな」と。
田んぼと細い道、時々鎮守の森。どこまでも平らな関東平野のパッとしない土埃の風景は同じだっただろう。道が舗装され、郊外型の店舗がいくら建とうとそれほど変わったとは思えない。増してや人間がそんな簡単に変わるだろうか。いま日本人みんながサムライの子孫ぶっても、実は武士階級は人口の数パーセントしかいなかったはずだ。
以前に栗本慎一郎が選挙に出たときの顛末記「自民党の研究」を読んで、東京の選挙区の縄張りは、鎌倉時代の領地分けの延長にあるので、そこから掘り起こさないと自民党の権力構造はわからないと書いていてたまげたことがある。
そう思うと、NHK大河ドラマや博物館に展示されるような教科書で習った硬直した鳥瞰した日本史しか、自分たちが知ることを許されなかったことに気づかされる。
でもどの時代にも、大きな歴史の物語には出てこないが、必ずそこに当てはまらない市井のハンパなはみだし者っていたはずだと思う。ヤンチャな奴がさ。そう目立ちたがりの暴走族然り、テレビカメラにピースする奴ども然り。
ここに教科書には決して載らない日本史があり日本人がいる。江戸時代は身分制度が堅牢で自由がなく生まれてから一生変わることがない不自由な時代と思われ教えられてきた。しかし人間という奴はどんな時代でも、教科書通りに生きて行くとは限らない。はみ出した者たちはいつでもいるのだ。それを著者は「通り者」=「バガボンド」と呼び、この視点から江戸時代を生きた民衆の自由について、活き活きとした姿を掘り起こしていく。
江戸時代の前、安土桃山の終わりの慶長のころ、かぶき者といわれたはみ出し者たちが現われた。耳際の髪を長く伸ばして後ろに垂らしたり、髷を結わずに後ろでまとめたりする変わった髪形でヒゲを伸ばし、ひときわ長い刀に朱塗りの鞘の派手ないでたちで、男色を縁にして団結し徒党を組む。戦国の世は終わったがその空気がまだ残る中で遅れて現われて来た無頼たちなのだ。何事にも死を問わずというハードな隆慶一郎の世界の人物たちが本当にいたのだ。
血気盛んだった彼らも、時代が落ち着きやがて士農工商が整備され諸法度で、個人というものががんじがらめになると彼らは消えていった。最後のかぶき者たちは、赤穂浪士たちと言われている。堀部安兵衛はわかりやすい。バカバカしいが華々しい命をやり取りする生き方をした男たちの図とでも言うのだろうか。
江戸の中期以降、汚職や飢餓が起きるなど制度が緩んでくると、またハンパ者たちが現われる。村での身分制度や五人組は揺るぎないものと思われがちだが、そこを通り抜ける者もいた。勘当や夜逃げによって「無宿」になる者が出てくるのだ。旅役者や博奕打ちなどはこれになるだろう。村にいても居場所がない奴ら。かといって村を出ても商家の奉公に耐え切れず、田舎にも帰れずというやつらだ。武士の場合は「浪人」に当たる。
無宿の奴らは歌舞伎とかで見ると派手に刀を指して粋がっていたりすることがよくある、なんで武士でもない彼らが刀を持てたかというと、あれは長脇差なのですね。旅に行くときには道中危険なので脇差が持てた。だから長くとも短剣だという(笑)。
また豊臣秀吉の刀狩で村から武器が無くなったといわれているが、実際は自衛のための武器、刃物はゴロゴロしていたらしい。
さらに時代は下がって、江戸後期、御馴染みの国定忠治天保水滸伝の笹川繁蔵や平手神酒、清水次郎長一家らのアウトローが出てきたのも、この流れからの必然とも言えるだろう。ある意味、侠客というのは、これらの流れの延長にあるのではないだろうか。
幕末を駆け抜けた新撰組も、正式な武士とは言えず半農半武という存在だった。でもこの時代にはお役人に過ぎない武士よりも強かった。それは裕福になった農民層らが貧しくなった武士層から道場と通じて剣道を学ぶ習慣ができただめだ。彼らが江戸幕府を最後に支えたのは皮肉としかいいようがない。最初の組長の芹沢鴨は、近藤たちとちがい食い詰めた浪人グループに属していたので、思想云々以前に育ちが合わないのは明らかだった。新撰組の鉄の掟は、より武士らしく生きたいという百姓出身である彼らのルサンチマンだったのだ。
本書はこれらの有名人や歌舞伎狂言の人物のほかにも、当時の古文書を読み解き、関東近辺の無名なバガボンドたちを紹介する。活き活きと描かれる彼らは決して教科書の文字ではなく、確実に私たちにまで繋がる、どの時代にもいる血の通った人間たちだ。
この地道だが素晴らしい研究を平易に書き切った著者には脱帽する。1962年生まれの同世代人がこういう本を書いてくれてうれしいです。歴史は偉人と死人がやったことを暗記するだけの難易な学問じゃなく、活きていまに繋がるほんとうは身近なものだと再認識させてくれる。
たぶんこういうカタチの庶民史の研究がかなり進んでいるのだろうな。