時代小説盛衰史

時代小説盛衰史

時代小説盛衰史

時代小説の鳥瞰図が読みたいなと思っていた。小説の連載の順番やデビューのいきさつ、それと江戸時代の戯作や戦前の時代の風俗、文化とどう関わりがあるか知りたかった。あと小説家たちの交友も。本書では見事に時代小説の流れがわかって且つ小説家たちの素顔も見えて、こういう人物相関図になっているのかあと感心すること暫し。
野間清治という男が雑誌「講談倶楽部」を明治四十四(1911)年に創刊するところからすべてははじまる。もちろんこれがいまの講談社のはじまりです。講談や落語の速記が読み物として目玉だったのだが、ここで問題が発生。新興の浪曲を取り上げたところ講釈師が反撥して、速記の提供をしないことを決めたのだ。明治の末期に浪曲のブームは凄まじかったらしい。これは知らなかった。
で困った野間はそれなら誰かに書かせればいいじゃないかと、新聞社の記者に白羽の矢を立てる。特に都新聞に目を付ける。この新聞は花柳界に人気があり、艶っぽいネタが強かったりする。記者と言っても、当時は履歴書も戸籍謄本もいらず面接だけで雇ってくれる職業と言われ、記者も江戸の滑稽本の流れを汲むような軟派な読み物風な書き手が多かったりする。そういう面白記事、三面記事を書く雑報記者のなかに中里介山(「大菩薩峠」)がいた。
同様に記者からはじめた書き手は多い。岡本綺堂(「半七捕物帖」)報知新聞の野村胡堂(「銭形平次捕物控」)、演劇記者の長谷川伸(「瞼の母」)。吉川英治(「宮本武蔵」)も新聞記者を経ている。
やがて雑誌が増え新人が登用される。白井喬二(「富士に立つ影」)、国枝史郎(「神州纐纈城」)、大仏次郎(「鞍馬天狗」)らだ。
まじめに大衆文学を広めようとした菊池寛とは別に、文壇出版界のブローカーのような存在としての直木三十五(「南国太平記」)がいる(大正の秋元康ですな)。大正の終りから昭和のはじめにかけて大衆文化が花開くと共に時代小説は興隆していく。円本、映画、レコードなどが後押しをする。
戦後は、カストリ雑誌からはじまり、新聞の夕刊の連載、週刊誌の連載の目玉として新たな作品が生まれいまに至る。
海音寺潮次郎、山手樹一郎山本周五郎角田喜久雄村松梢風子母沢寛佐々木味津三三田村鳶魚三上於菟吉林不忘錚々たる面子が現われては消えるのが壮観。
大岡昇平が時代小説の文学性に噛み付いたことは知らなかった。「成城だより」のオッサンは昔からうるさい人だったのですね。だから晩年に歴史小説を書いたことが彼なりの解答だったのか。
どうしても時代小説は文学として低く見られがちで、書き手にもコンプレックスがあり、賞を授与されることが文壇での地位の基準になったりしてしまう。もちろんそれを固辞した作家もいたが。
ある程度、時代小説を読んだことがあると、教科書的な文学史ではなくこういう歴史もあるというのがわかって面白いです。

谷崎(潤一郎)は早くから早くから中里介山の「大菩薩峠」を一代の傑作として推奨した。谷崎に「大菩薩峠」が尋常一様の通俗小説でない、ということを教えたのは泉鏡花であった。谷崎はこれを読み、鏡花の説に共鳴した。そして昭和二年に『改造』に連載した「饒舌禄」の中でこのことを書いた。谷崎のような純文学を代表する作家が文壇から無視されていた介山を高く評価したことは、当時の文壇人や文学青年に大きなショックを与えた。デビュー以来、小説の物語性を重視してきた谷崎は自然主義から派生した偏狭な告白小説や心境小説の類を真の文学のありかたとして認めてなかった。むしろ徳川時代の馬琴や秋成のように大衆を相手にした波乱万丈の物語にこそ、小説本来の姿があるのではないか、と考えていた。谷崎はみずからの文学観を実践するかのように、昭和五年には東京、大阪の朝日新聞夕刊に、戦乱の室町時代を背景にした「乱菊物語」を連載した。これにはわざわざ題名の上に、<大衆小説>という頭註を付けるほどの気の入れようだった。