ピーター・ボグダノビッチによるシーゲル論

久しぶりにピーター・ボグダノビッチの「ハリウッド・インプレッション」(原題:PIECES OF TIME)を読み直したら、こんなことが書いてあったので引用しときます。

ハリウッド・インプレッション―映画、その日その日。

ハリウッド・インプレッション―映画、その日その日。

B級映画 B-MOVIES

P174
ドン・シーゲルを例にとれば、彼はしばしば息詰まるような困難に立ち向かいながら、余人の手にかかれば、簡単にいつものものに終わってしまう割当仕事に一貫したものの見方を添えると同時に、ただならぬ両義牲をもたらせてのけている。ラオール・ウォルシュハワード・ホークスのタフにして馬鹿げたことはやらないというワーナー・ブラザースの伝統にしごかれて、シーゲル映画は変に気取りがなく、簡潔で、型にはまっていない(近年、昇格して大予算を与えられるようになっているが、エネルギーはかすんでおらず、辛らつなところも姿を消していない)。『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』は安っぽいタイトルとつけ足しのような始めと終りの部分(会社が逃げ腰になったことの現われ)に目をつむれば、ホークスの『遊星よりの物体X』と並んで、これまでに作られたSF映画の中で最も面白く、最も怖い作品である。アメリカという国がマッカーシズムの弱い者への攻撃による動揺から立ち直っていない間に作られたにせよ、世界が感情を欠落した方向へ容赦なく動いていくことに警鐘を鳴らす寓話として、この作品は今日、特別な意味を獲得している。『第十一監房の暴動』はいまだにアメリカで作られた刑務所映画の傑作という地位を保っている(ヨーロッパ映画のそれはおそらくジャック・ベッケルのほとんど知られずに終わっている感動的な作品『穴』であろう)。同じように、『突撃隊』は戦場で勇敢な男の本質的な精神異常――その極めて反社会的な行動が戦争という異常な状況下では英雄的な勇ましいものと化す――を考察した唯一の戦争映画となっている。シーゲルの刑事ものの中で一番面白い(この他にシーゲルは少なくともあと二本作っている)『刑事マディガン』は警察官の腐敗し易さを考察しながら、同時に彼らの日常生活のあさましさをあばいているところが特に興味深い。一方、シーゲルは『殺し屋ネルソン』、『ザ・ラインナップ』、『殺人者たち』(ヘミングウェイの短篇小説の一九六四年の映画化版)で暗黒の世界の裏面を鋭くえぐってみせ、アンドリュー・サリスの指摘するところによれば――シーゲル映画の主人公は――法の内にいようが、外にいようが――腐敗のはびこる世の中で、常に、“社会に背を向けた寄るべなき人間”である。観点はきびしいかも知れないが、その描写において偽善ばなれしており、ストーリーを視覚で語る才能の力強さに特色があるのだ。
『ザ・ラインアップ』の最後の追跡のシークエンスを何気なしに観ただけでも、鳴り物入りで宣伝されている最近の同一形式の映画の作り手の誰かれを恥入らせることは必定であるし、『刑事マディガン』のラストに置かれた銃撃戦は私がこれまでに観たその手のアクション・シーンの中でも最も水際立った撮影と編集になるものである。私は観る度に思わずジンとなるのだが、それは単に結末の痛烈さのせいばかりではなく、演出のすばらしさと明快さから来るものの方が上廻ってさえいる。アクションの名人、ハワード・ホークスが要約して語っている――「ああいうものはなかなか出来ない」。(後略)

えーと、ちなみにこれは1972年9月に書かれてます。


そろそろ中途半端になっているシーゲル自伝の翻訳を再開しますかな。ホント大変なので、有志募集。