そこに何が映っているのか?

Date: 2004-12-15 (Wed)
バブル以降、日本映画にはいまの日本の姿が映っていなかった。
カレンダーのような時間が止まった田舎の風景とか、住宅展示場かテレビドラマのセットのような押入れ収納が無い家具が少なすぎる生活感の無いマンションの部屋。あるいは小道具係がルーティーンで飾り付けたような安っぽいケバケバしい極彩色のオブジェがゴテゴテと並ぶ独身者のアパートだけだ。どちらにせよ映画専用のセットであって人間が生活している現実世界とは離れていく。
バブル以降のモノが溢れている消費経済社会における生活では、他人と自分を差別するのにどんなモノを持っているかで表わされるようになった。言い換えればどのような他人と違うモノを持っているかで、その人のことをすべて表わす時代に突入したのだ。
例えば、映画のシーンで部屋に雑誌一冊あったとすると、その雑誌が何であるかでものすごく意味を持ってしまう。生活感を出すための小道具としての雑誌ではなく、なんでこの家に住む人物はどんな趣味嗜好なのでこの雑誌を買うのかまですべて表わすことになってしまうからだ。それだけで登場人物を説明してしまうので、すべからく、それに沿ったカタチで彼が食べるもの着るものまで全部設定しなくてはならなくなる。もっと言えばその一冊の雑誌の選択が違和感があると映画すべてをブチ壊してしてしまうのですね。そこまで出来る映画というのはほとんどない。だから暗黙の了解として生活感を抜いていく作業をしている。これは旧態依然の昭和時代の映画美術のやり方であるので従ってそこまでの時代までしか描けないことになる。これほどモノが溢れている日本なのになぜかガランとした部屋のセットが多いのはそのせいだ。
それとともに生活感の排除がこの世代の合言葉のようにきれいな風景しか映らなくなってきた。メディアにおけるいまの日本では貧しい=汚い=生活感という方程式が成り立たなくなって久しい。
伊丹十三は、彼のセンスの好悪を別とすれば、生活感を食べ物や葬儀そして最終的には情報と置き換えることでバブル以降を描写して乗り越えようとした。また周防正行は、伊丹が定着させることの出来なかった風景を小津の意匠を借りて「情報」+「生活感」として現代に置き換えることに成功した。そこまで詳細に詰めることのできない映画は、

  1. 1.ハズしてみる なんちゃってと逃げ道を作っていることで、笑いに逃げたり、どんなことがあっても熱くなったアンタがバカだよと説教を喰らうことになるだけ。まともに観客に向かい合うことを避けて、観客に「これは映画なんですよ」と強要する。
  2. 2.そのまま(リアルに生理的に)描写する  描写力の無さをそのまま撮るだけで、音楽をつけたり演技をつけたりしないので、リアルに見える。昨今はフィルムや音響の表現力が高いので、意図的に表現したように見えてしまう。
  3. 3.人物(内面や生活環境)を描かない わざと押し付けず、しかし描ききるまで煮詰められておらず、いままで観たことのある映画の世界を参考にそういう世界にする。(例、なんでも小津調)

観客は映画の物語の展開を楽しむんじゃなくて、表現が昭和で止まったままの不思議な「日本映画」という勝手に限定された枠の中で切り取られた、映像の上っ面だけを観ることしかできない。北野武をはじめとする日本映画のひとつの傾向だと思う。

さて問題はJホラーなのだ。例えば、映画の中でこういうシーンがあったとしよう。大学生の女の子が遠い田舎の村に住む祖母の家を訪ねる。このシーンをどういう風な画にするのか思い描いて欲しい。その家は、まあ茅葺屋根でないかもしれない。しかし貧乏臭かったり、汲み取りであるような描写は無いよね、でも居間は整頓され仏壇はあっても、プラズマテレビやカラオケセットは置いて無いだろう、田舎を笑う下品なギャグで無い限りは。それが今の日本映画の暗黙の田舎の風景だ。
しかしである、これがJホラーというジャンルの括りがあると、居間にプラズマテレビやカラオケセット、通販で買った健康器具が置かれていても良いのである。ちょっと想像してみるとわかると思う。「何気ない日常の延長のドラマが描かれる良い日本映画」じゃなくて、邪悪な霊がその家を呪っている映画ジャンルとして規定された途端、今の小物でいっぱいの生活感が溢れる家であっても不思議なことに全然違和感が湧かないとは思わないか?どう?
あるいは月9のお前らのような遊んでいるサラリーマンがこんな広い部屋に住めるわけ無いじゃんというマンションと違い、古いコンクリートの壁にひびの入った公団アパートを舞台としても、過度の生活感が出ることもなく普通に現在の日常性が描けているのはなぜか。
これがゾンビ女優竹内結子が出るような「何気ない日常の延長のドラマが描かれる良い日本映画」だと家の中の布団とかUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみとかドンキホーテで売っているような小物とか過度に生活感の出るものを全部取っ払っちゃうんだよね。なんで同じ部屋でもJホラーになると納得できるのだろうか?
主人公が好きなCDが浜崎あゆみか、ケミストリーかなどを、口にした途端にウソ臭く感じて脱力したりすると思うのだが、Jホラーになると気にならないし、そんなことどっちでもイイんじゃないのと納得してしまうのは私だけか?
反対から考えるとJホラーでしか、現在の日本は描けないという結論になる。
Jホラーが描く現代の姿に共感してしまうのは、そこに多くの真実や信憑性があるからだろう。それはジャンルに仮託したなにかだと思う。ホラー映画にしか今の私たちの時代が映っていないとはなんとも不気味なことではないだろうか。
Jホラーと規定されると、画面に生活感溢れるモノを置きたくなるのはなぜか?万物に八百万の神が宿るからか?実はバブルを挿んだ昭和と平成の断絶を結びつけるのにぴったりの仕掛けなんだと思う。薄っぺらい「今」という時代を描いてもその裏に必ずある闇の部分を表現できることで、置き去りに忘れられた時代の繋がりが表現されるのではないか。あるいは霊というスーパーナチュラルな存在を通して、世代とか友達関係を超えた繋がりのドラマが簡単に表現できるからではないか。「場所」や「人」に憑りつくことで、こまごまとしたモノの差異による人物の違いの説明というつまらないレベルを超えた、失われた近しい歴史感=生活感を獲得できたのではないだろうか。
はやりの近い昔昭和30年代ノスタルジーに於ける生活感は失われたものへの挽歌であり、それは陳列された博物館展示となにひとつ変わらない。こちらの日常に飛び出して来るものではない。
しかしJホラーが醸し出す生活感は、差異による個性の表現なんてものを無効にできる力を持っている。映画の表現をこちらに引きずりおろすだけの力を持っている。
ジャンルの持つ世界観が現代とピタリと合うのは、描かれている不安感がいまの世相と合うといえば済むんだろうが。しかしなぜこのジャンルだけが、現代の庶民性=生活感を表現できるのか?モノの記号化を無効にするほどの強い力を持っているのか?という部分が解決されていない。
(以降考察中…)