ソドムの市

<ホラー番長シリーズ> ソドムの市 [DVD]
あまりにも多面体で斬り採っていくことは可能だけど、まあ5年前の私だったらベタ褒めしていただろうなという気もする。草映画というカタチをはじめて、商業映画、職業カントク、デジタル対応とか自分の中でクリアする考えをある程度規定したのでそれを基に大体映画を特に邦画を観ているのでね、観方が偏るのは仕方ないと思う。
それでも岩淵達治先生が出てくるオープニングあたりまでは「とてつもない怪作に化ける可能性があるかも」とちょっとわくわくした。小嶺麗奈も女優生命を危険に晒すほどの確信に満ちた演技で、この映画はかなり救われている。石井總互が鍛えたのか映画の演技ができる娘だね。
露骨にパクっているいくつもの古典映画のシーンの収まりがものすごく良いので決して不快にはならないのが不思議。これが同じシナリオで佐々木某が監督するととても下品な映画になることは容易に想像できる。でも『血塗られた墓標』や『眼のない顔』『吸血鬼』とかの印象的なシーンをそのまま挿入しても程よい暖かい目で観ることができるのはなんだろうなあ
ただね、これを書くと長くなるけど、いまの映画美学校系映画っちゅうのはさ、観客を必要としていない映画なのだよね。否、そういう書き方だと60年代アングラ実験映画に連なる系譜と思われるけどさ(誰も思わんか)、そうじゃなくてさ、「観客は必要ない。だけど批評家は必要だ、それもこの映画を褒めて価値を与えてくれて世界に情報を発信して欲しい。そして世界中の観客が批評家になってくれて、ペイできるのが望ましい」という倒錯した論理で成り立っている。
60年代で言えば、映画で大衆を啓蒙する、あるいは学習するという運動の一環として捉え、動員された観ている方も「よくわかんないけど、まあ芸術だからねえ」という暗黙のルールができていた。今は、選んだ観客に通用する芸術映画を作り、そのスノビズムに則って観客を募り、資金を回収することで、かろうじて商業映画の態をなすことができている。
マニア向け商品なのなわけだ。問題は観る方がそのデキに文句を言ってはいけないという、イヤな有名ラーメン屋みたいなところで、こちらは行列もできないのにやたら高飛車で、「オレはカネが無いのに作っている。この安っぽい味の良さがわからないお前が悪いのだ」と説教を垂れるところが違う。
思うのだけど、モノを作っている人間がカネが無いからと言い訳するのは浅ましいことじゃないか。どこの職人が、料理人が、そういうことを言うかねえ。もし限られた予算ならその中で最大限の努力をするのが、アルチザンの誇りであり、心づくし(エンターテインメント)だろう。そんなことを吼えるだけ虚しいけどさ。
邦画が鈴木清順以来の言い訳作業に進んで、批評のコトバを待っている限り、そのことに準拠して自らのスタンスを作っていく限り、質の向上という部分が忘れられることに繋がるだろう。じゃあもし予算がたくさんあったらオモシロイ映画が作れるのか?決してそういうことはないと思う。
これは細部のない映画だと思うよ。いやこんなに細々といろんなことをやっているじゃないかと反論はあると思う。けどねこれは夢の自動書記をパターン認識で並び替えたものだけなのです。整合性を無視した論理性とでも言いましょうか。本来ならそこに観客に伝えようとする手段としてなにかあったり、そうではない場合の作り手の妄執が出てきたりするのですが、どこまでも監督の頭の中から全然飛び出してこない。こちらが態々作り手のアタマん中を想像して補完しないとならないのなら、イメージはどこにあるのか。スクリーンに提出されるイメージよりも映像化できなかった監督のイメージが大切だということはあり得ない。
神は細部に宿るというのが、モノ作りの極意であると考えるが、その部分の放棄は監督としての仕事放棄だろう。この作品の場合は、脚本家が字面そのまま作ったものとしか言えない。だから映像演出細部が文字レベルであって、映像までこなれていないのが最大の欠点。
一方でそれは色々理由付けできる部分でもある。「やりたいからやってみました。ダメな部分は予算が無いからです。でもこんなことは誰もやらないでしょう、ハハハ」…子どもですか?素人ですか?
もしプロを名乗るのであれば、そこをどうにかするのが良心であり誇りじゃないのですかねえ。もし芸術家と称するのなら、成立させる七転八倒する苦悩のプロセスそのものが画面に出てくるはずですよね。
映画は商業娯楽であり、同時に芸術であることは確かだ。そのズルイ部分だけ切り取っているだけのヌエのような現象が邦画を毒している。20年以上続いているハスミ・スノビズムといっても良い。
まあここまで言うとマジメな人はもはや劇昂しているだろうが。ただね視点をずらしてみるとさ、『ソドムの市』がやっていることは現代美術と同じなんだよね。コンセプチュアルアート。意味と解釈でしか価値のない作品。村上隆のように具体的な細部は誰かが作るから、こちらはデカイことやキーワードだけ言えば良い。頒布ルートは批評家と広告代理店で作られるというやつ。映画もそれと同じことをしていると思う。…もしかしてそれってもう常識なのか?気づいていないのは私だけか?みんな美術館に行くのと同じつもりで映画館に行っているのか?となるとこの前提は全部崩れるのだけど。
また書かなくとも良いことを書いてしまった。