狼と豚と人間  

狼と豚と人間 [DVD]
深作欣二(1964)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21449/index.html
笑っちゃうほど観念的なシナリオは監督と佐藤純弥の共作。まるで舞台劇のような構成。『レザボア・ドッグ』の元ネタかという、アジトでの裏切り者拷問とか、図式的な人物の配置が今観るとどうなのかねえ。
深作映画も久しぶりに観たような気がするが、深作って人物の過去とか変化とか内面に興味が届かない人で、その演出力はその場の登場人物の持つ高いエネルギーを余すところなく出させることに全力を注ぐテンション芝居の引き出し方なのだろうと思った。わかりやすく書くと、この人物がどういう想いで拳銃の引き金を引くかというよりは、どう引き金を引いて殺したら相手をどれくらい憎んでいるかわかるかに重点を置くタイプなのだろう。
だからスラムのヤクザな兄弟同士がどれくらい憎しみ合っていたかが全然伝わってこないんだよね。監督の視点が組織に入った長男の三國連太郎か、次男のチンピラの高倉健か、三男の不良上がりの北大路欣也か、一番若いやつらに同情的なのかと思ったけど、それほどの思い入れが無いんだよねえ。
たぶんにそういう人物の描き分けは脚本家の仕事だと思っていたんじゃないかな。そこらへんの足りない部分を補って、観念の部分を封印させたのが『仁義なき戦い』シリーズだと思う。
世代の違う人間の対立を出すのが好きだけど、結局それを消化しないまま、観念を突出させたまま図式的に終わってしまうのが彼の特徴というか下手な部分だろう。その意味で『バトルロワイアル』なんかも胡散臭く感じるんだよね。世代とか対立はゲームを成立させる口実で別に興味はないのだと思う。ドラマとかテーマとかでなくドンパチやっていたいだけなヒトなんじゃないかね。
だから『仁義なき戦い 広島死闘編』の予科練帰りの欣也の描き方で笠原和夫と対立したということがようやく理解ができたような気がする。単に戦中派と戦後派の世代の対立の問題じゃないんだろう。資質の問題も大きいと思う。深作自身はそこを「自身を冤罪にしながら」問題を「観念的な世代の対立」にすり替えていたので「拠って立つところがなくなり」、最後は若者に媚びを売るしかなかったのではないか?キツイ言い方だけどね。
まあ他の作品を観てこの予感が当たっていないことを願う…。うーむそうすると80年代文芸路線はどうなるのかなあ?