ドッペルゲンガー

DVD。
コントかよ。途中でマジメに観るのをやめた。なんか自分たちだけ大真面目にやっている割には傍から見たらなにやっているの、と脱力させられる数々のシナリオ上の大きなアナをこちらの脳内で補完して塞ぐ気にもならない。アタマ悪すぎるシナリオ。Vシネ時代はそれでもまだあがいて職人監督になろうとしていたと思うな。『CURE』以降楽な方向へとばかり選んで進んでいる。
ホントこの行き当たりばったりの脱力はなにかに似ているなと観ながら考えてようやくわかった。オウム真理教の底抜け脱線ぶりとそっくりなのだ。思考の方向性や破綻の仕方がまさにそれなのだよね。まあ学生のアタマのまんま、俗世と交わらず20年以上経っちゃったヒトたちということかな。
しかし登場人物のやりっぱなし行動はどうよ?やろうとしているお題目と行動のズッコケさ加減の落差も烈しすぎる。反社会的行動に対しても警察は存在しないし、敢えていうなら社会(俗世)すら存在しない。あまりに思いつきだけでスカスカなのに、それをテキトーな観念の言葉で自己弁護して反省もせずに突き進む。衆生救済への熟考の果てが大殺戮の実行だったりするのと同じだ。フツーはその観念と現実のギャップに悩み、解決策を模索するというのが社会人の姿勢だろう。
閉じられた世界のまじめでアタマの良い人の観念思考の行き着く果ての虚しさを思う。
ただやたら過剰な流れはどうなのかねえ。納得いかないですよね。無意味なセックスシーンはまったく描かないくせに、無意味な暴力シーンは過激で目を覆うほどの悪ノリだと思う。ほかにもっときちんと描くことがあるだろうに。
映画作っている人から「どうせ映画でしょ、所詮はウソ、ウソだからまじめに観るなよ」と説教されてもね。曖昧にしか言わないが映画外がらいろんなプレッシャーをかけて来て結局は見方を強要している、教祖の珠玉の作品を見せて頂く映画は観たくなーい。この場合危ないのはみんなどこかで狐が落ちるとなんだとバッシングがはじまるようになる。(森田、伊丹…)
まあやっていることは最近のブロックバスター、ハリウッド映画だったらたぶん成立するかもしれないけど、カネがかかっていない日本人しか出ない作品でジョエル・シルバー製作のつもりでみろよと言われても困る。
オウムがその観念千年王国を勝手に作り上げたのと同じ、脳内帝国で勝手に映画の起承転結の流れに則っただけの空っぽな人物を操り、映画のカタチだけを保持しているのに付き合うのは疲れる。どこにも拠るところが無いし、そもそも王様は裸だし。家来だけだ「素晴らしいお召し物ですね」と言うのは。
私だってさ、映画作りにはタブーが無い、なにをやってもいいんだということはわかっているしその考えを支持している。だからストーリーが不自然であろうが、セットがスカスカだろうが気にはしていない(気にはなるけどさあ)。それを堂々と観客に向けて、こんなもんでしょと自分が映画を作り続けるための言い訳として使って欲しくない。最終的にプロデューサーと批評家の方しか見てないじゃないか。オモシロイ映画を作る気がないのなら仕方ないのだけどもね。作れる才能があることはわかっているのだけど、逆説的にそのリスクよりも監督本人が観客を拒否することで映画を作り続けることができる、という仕組みを選んでいるのだから、もはや蚊帳の外の観客があれこれいう話じゃない。だからみせていただくという関係しか成り立たない。この場合、観客には「理解できなくても賞賛しなければならない」という選択肢しか与えられていない。
映画のカラクリというか黒沢清のストーリーに対するパターンと感受性はもうわかったからね。前に『アカルイミライ』評に書いたのと変わっていないからもういいよ。ストーリーテリングの稚拙さを直す気はないみたいだから。登場人物の役割の分担と交換、組織の裏切り者の介入という硬直した分配は相変わらずだ。そもそもあの介護器械はなんなの?まったくストーリーを動かさないね。なのにマクガフィンとしても最後まで残っちマズイでしょう。
これ以上怒っても書いても無意味なので、当分リアルタイムでは観ないことにする。今後はココロにゆとりのあるときに鑑賞することにします。