ハワード・ホークス―ハリウッド伝説に生きる偉大な監督

ハワード・ホークス―ハリウッド伝説に生きる偉大な監督

ハワード・ホークス―ハリウッド伝説に生きる偉大な監督

分厚いんだけど、高橋千尋の監訳なので安心して読める。
映画といえばハリウッド映画、なんでも楽しく観ていたのに、ある日ハワード・ホークスの名前を知ってからは、監督によってこれほど映画のおもしろさが違うことに気付き、以前と同じように喜んで観ることができなくなった貴方にはぜひ読んでもらいたいです。
作家主義からも距離を置き、監督のホラ話にもまゆつばを付けながら、資料にあたりその実像に探りをいれた労作です。ホークスという人物は性格の歪みとか政治信条の偏りとかはあるが、それが作品にどう影響したというような安易な分析はしていない。
興業成績、撮影所のプロデューサーやエージェント、同業者の監督との関係。システムがすべての夢の工場のなかでいかにしてサバイバルをしてきたか。特定の撮影所には属さずメジャーはすべて渡り歩いている。セックスを暗示する表現での検閲との闘い、予算超過との闘い(必ず撮影日数が予定の倍はかかっている)。それらを伝説と事実を分けて、彼の実像である孤独なハリウッドの洒脱な実業家の姿を浮き上がらせている。
驚くべきは、ホークスはそれほど語るストーリーのバリエーションを持っていなかったという指摘だ。「危険な仕事に就くふたりの男が同じ女を取り合い、最後には片方が死ぬか、譲ることで終わる」。これを生涯繰り返していたというのだ。『リオ・ブラボー』三部作が同じというのは有名な話だけど、観客はそれに気付かないあるいは気にしなかった。なぜか?ひとつひとつのエピソードが面白く、演出が良いからだ。逆に言えば、ストーリー・ラインが浮かび上がるような、テーマが見て取れるような構造にはなっていないのからだ。
関連して興味深い指摘は、ある意味集大成であった『リオ・ブラボー』の出演者はジョン・ウェイン以外は、ウォルター・ブレナンを含む全員が当時のテレビドラマの人気者だったということだ。もちろんホークスはそれを承知でキャスティングをしている。
それで思い出したのは、『リオ・ブラボー』をはじめて映画館で観たとき「こんなに長い作品だったんだ」と気づき、テレビで観ても実は印象がそれほど変わらないことだった。ということはエピソードがいくつかカットされてもストーリーにはなんの影響が無いと言うことだ。その意味ではホークスの話法はテレビドラマに似て、エピソードの積み重ねや寄り道でキャラクターをふくらませて楽しませていくもので、だからキャスティングが弱いと作品自体がつまらなくみえてしまうことがあるのだろう。
その他にも、そのキャリアを自らが出資してプロデューサーからはじめるという、金持ちならではの掟破りなやり方だったり、彼が仲が良く監督の姿としてマネをしたのがビクター・フレミングだったというのには驚いた。
男性的で明るい映画しか撮らない印象があるが、実はヘミングウェイと同じ「失われた世代」ひきずっていて、モノクロ時代はやたら登場人物が自殺していたりする。第二の妻のスリムが離婚した後にNYの社交界に入り、トルーマン・カポティの短編「バスク海岸」で悪く書かれていたというのも発見。
なにはともあれ、そのキャリアで何度も頂点に立ち傑作を作ったことは間違いはない。そのような映画監督はないのだから。またその製作者としての嗅覚で観客の嗜好を嗅ぎ分けたのも確かだ。いまはスピルバーグがまったくホークスの真似をしているのはご愛嬌か、それともハリウッドの伝統なのか。