マイ・ファースト・ムービー

マイ・ファースト・ムービー―私はデビュー作をこうして撮った

マイ・ファースト・ムービー―私はデビュー作をこうして撮った

1984年に公開された『ブラッド・シンプル』は衝撃的だった。作品がそうというのではない。無名の素人がメジャーに対抗できる娯楽作品を自主製作するという、いままでの常識では考えられないことをしたからだ。それまでは個人で製作費を捻出する映画は既存の配給ルートに乗らない個人的なまじめな芸術映画か、低予算ホラーのようなきわもの映画のどちらかだった。自分たちのエンターテインメント作品を完全にコントロールするために独立映画を作る、そのねじくれた思考回路の映画と同時に彼らの資金調達方法も伝わってきた。個人投資家に映画への出資を依頼してかき集める、それはジャック・ブキャナンが身振り手振りで金持ち連中を煙に巻く『バンドワゴン』の1シーンを思い出させた。そしてさらなる神話はロバート・ロドリゲスだ。23歳7000ドルで作られた『エル・マリアッチ』(1991)をめぐる物語はぜひ「ハリウッド頂上作戦」を読んでいただきたい。
本書では、16人がはじめて監督をしたときにどんなドタバタがあったのかをインタビューしたものだ。まじめに語られている部分が多いが、劇場用映画だろうがビデオだろうが直面する問題はおなじようなもんだろうね。私が興味のある人のエピソードをいくつか取り上げてみます。
コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』では、35mmで2分の予告編を作りセールスして、1年半かけてひとり5000から1万ドルの投資を求め、最終的に75万ドルを集めた。ちなみにかれらが手本としたサム・ライミ(『死霊のはらわた』)はスーパー8で予告編を作り、最初に9万ドルを集めたという。これはエクスプロテーション映画ではよくやる方法だそうで、「パートナーシップ(部分的共同製作)」というらしい。撮影のバリー・ソネンフェルド(のちの『MIB』監督)は長編の経験がまったくなく、ラッシュを見ていたときに緊張のあまり吐いたという。
ケヴィン・スミスは『クラークス』を作るのに、バイト先のコンビニに店長に成りすまして、クレジットカードを作りまくり、(カード会社から勤め先に照会が来るとバイト仲間が「彼は年商5万ドルですよ」と言う)2万5000ドルを作った。生フィルムを手に入れるときフィルム会社コダックの、学生15%割引を利用するためにかつて通った専門学校の1日コース「子豚のローストの作り方」に50ドル出して申し込み、学生証を手に入れフィルム入手後に申し込みをキャンセルした。もちろん50ドルは戻ってきた。
ペドロ・アルモドバルは8mmで劇団仲間とあらゆるジャンルの映画をつくっていた。当時のアンダーグラウンド映画はウォホールみたいなものしか認められておらず、物語は否定されなければならず、まじめで退屈な(安直ともいう)映画しかなかった。しかし彼はB級的人材を使ってB級的物語を作り、それも遊び気分で楽しく語ることを続けた。
ゲーリー・オールドマンは『ニル・バイ・マウス』の撮影前にクリント・イーストウッドから監督業について「おもしろいぞ、楽しくてやめられなくなるぞ」言われた。そしてひとつのアドバイスを耳打ちされた「俳優たちより多く睡眠をとることだ」。これこそが過酷な肉体的精神的な作業に対する金言ではないだろうか。