キル・ビルvol.1

キル・ビル Vol.1 プレミアムBOX [DVD]
クエンティン・タランティーノ
ワーナーマイカル熊谷

デビュー前のタランティーノの目標はビデオ公開されるようなB級な映画を作る監督になることだった。その夢は『レザボア・ドッグ』にハーベイ・カイテルが出資してメジャー作品になることで潰えた。『パルプ・フィクション』でカンヌ映画祭グランプリにアカデミー脚本賞を穫り、『ジャッキー・ブラウン』では大人のドラマも撮った。ハリウッドではいまだにダラダラなヲタク喋りで笑って人を撃ち殺すだけのタランティーノ現象が席巻していた。本人はどこかで見えちゃったんじゃないだろうか。「あーこのままどんな作品を何本撮ってもまたいつものタランティーノ映画だねえと言われ続け、何十年か後にアカデミー功労賞を貰うだけなんだろうな」と。だったら絶対に他人には褒められないような、自分のための自分の初心に忠実な映画を作ってやろうと思ったのだろう。
それがアナーキーすぎたので、みんな唖然としたと思うよ。ハリウッドがB級ビデオ映画に乗っ取られたんだもの。映画史ではありえないことだよね今まで。ロジャー・コーマンのところ出身のスコセッシらは、そこからいかに出ていくかが命題だったが、それを顕揚しようという人間はいなかった。いてもパクリじゃんで終わってしまった。ハリウッドでどんな企画でも通せるだけのチカラを持った男が選んだものが「これ」だというのは、はっきりいえば病んでいる。ただ商売にしてしまうハリウッドのカネとタランティーノのセンスは分けて考えなければならない。
ふと思うのだけど、この映画はオリバー・ストーンの『ナチュラル・ボーン・キラー』に映像のテイストが似ている。撮影監督と脚本家が同じというなのもあるけど。タランティーノの演出力はモンタージュのそれではない。だから過度に残酷シーンやフェティシズムの部分がイヤなほどに目立つのだ。表現がナマだということでもある(下手とも言うが…)。 その部分からは本気でカンフー、ヤクザ、マカロニが好きだと言っていると言えるだろう。問題はそのヘンなビデオばっか観ているだけでなく、センスの良い音楽も聴いているという部分だ。曲と合わせる場面の選択が素晴らしいのがタランティーノであってこれだけは他の誰にもできない。よく考えると音楽が鳴りっぱなしだったことに気付く。極端なことを言えば、タランティーノの好きな、へなちょこなアクション映画を再編集して音楽だけバンバンにリミックスしたらそれなりに観られる作品になると思うのだけど。そこまでいくと既に映画では無く単なる個人の趣味になってしまう。そうだね個人の趣味で映画を撮ったということだねえ、それがハリウッドという工場で作られているからわからないんだけど。「究極の個人映画、みんなが一度は妄想するができたものはいない」だと思うよ。

キルビルVol.1』について、つまらないというのは簡単なことだ。なぜならこの映画の元になっている映画的記憶(死語!)は、知らなくても良い映画史の知識な訳であって、逆にこんなこと知っていると趣味の欄に躊躇無く"映画鑑賞"と書ける映画大好きじゃなくて、映画秘宝しか読まぬヲタクとバレてしまうだけだ。
別の言い方をすると、「やっぱさ、タランティーノはB級だけど新しい才能で最高だよね」などと誤魔化しても、「元ネタは良く知らないけど映画的に面白くはないね」と評論しても、その人がどういう映画とビデオを観てきたかがすぐに分かってしまうというオソロシイ踏み絵なのだ。
でもホント徒花映画が好きだよねえ。まさかこんな映画を嬉々として作る人間が出てくる日が来るとはねえ。敢えて書くと、元ネタの70'映画群って、作り手たちが作りたくて作っていた映画じゃないのに、出来上がったらオモシロカッタという、偶然の(やけくそともいう)作用みたいなものだと思う。だから子供の頃にはじめて観たらびっくりしてトラウマになるが、オトナが冷静にいま観直しておもしろいかというとそんなことはないだろう。さらに言うと、それらの元ネタは作り手(タランティーノ)の楽しみにはなるが、観客のたのしみになるとは限らない。監督はココロザシがものすごく低くて、自分のオリジナリティなど何一つ考えていない。期待しているタランティーノ印はどこにも存在していない。それでも映画は出来ている。これをなんといえば良いのか?タラの新作か、単なるパクリか、それとも妄想なのか。
この映画を成立させているのは、ある時代の徒花映画の再現であり、個人の短い年代の映画のトラウマ体験の再現だけなのです。 これは最初から何一つ新しいことをしようとしていない、最初から行き詰まっている映画なのです。そのことを前提として作っているため、評論も作家性も拒否している映画なのです。もっと言えば、大衆娯楽である映画の一般性を否定しているのです、と書くとまた話は戻って、これは映画なのか?という問題に行き着くのだけど、感じる過去のブルーな時代を思い出させるイヤーな映画らしさは何に起因しているのか。私と違う世代はどう感じるのでしょうか、気になる。
もし、レンタルビデオを自分の好きに繋いで、音楽を勝手に付けたら、こういう感じになるのか?才能は別として個々人のトラウマキルビルはできるのだろうか。
なにはあともあれ、これは"映画"なんだよね。そういう匂いがプンプンするの。映画のふりをしているなんか別の大きなDVDみたいなのが多いなかで。これだけ、CGだPVだの誘惑があっても、環境としての映画館を意識して作れたのは大したものだと思う。それは舞台が日本だから邦画チックな部分が多いのでそう感じるのだけなのか?タラの他の作品じゃ全然そんなこと感じなかったからね。