希望の国のエクソダス

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 いつも思うんだけど、村上龍の小説っていつも宣伝文句以上であった試しがないんじゃないか。 キャッチコピーに書かれていることはないのね。今回は確か、「2002年、全国の中学生が日本を後にする」みたいなものだと思ったけど、まさにそれ以外のこと書いてないんだよ。それは小説として破綻がないということでもあるし、尻つぼみと言ったほうが正解かもしれない。大風呂敷をひろげたは良いけど閉じられなくなる、しかしこのまま突っ走ったら、批判を受けるので自爆装置を作動させる。いつもこのパターンだ。でなければ、だらだらとした連作小説体となる。
 前者は「コインロッカーズ・ベイビー」、「愛と幻想のファシズム」、「昭和歌謡大全集史」、「五分後の世界」など。後者は、「テニスボーイの憂鬱」、「トパーズ」、「ラブ・アンド・ポップ」、「だいじょうぶマイフレンド」、「ラッフルズホテル」、「ライン」、など。
 前者で致命的なのは、いつも音楽や映画を特権的なものとして神聖化し、持ち上げすぎて降りてこられなくなってしまう感がある。芸術的な才能を持つ人間を 「全能神=天才」と称するのでストーリーが進まなくなるのだ。彼らのやることは、いつも成功して大衆の支持を簡単に受けられスター化するので、その後彼らのすることはすべてうまくいく。そのため、後半になるとストーリー展開がどんどん安易になっていく。そして肥大化するだけして、空中分解する。後者の場合も、特権的な主人公を軸に据えるが、同じ話でも連作のため、看板を替えるので一応飽きないようにはされている。
結局、それは村上龍の小説がキャッチコピー的な発見、電通的なウリをカリスマ的な人物に仮託するからだ 。そのため語りやすく、読みやすく、議論されやすい、消費物に転換されるのだ。
 ここで、問題なのは、小説としての問題ではなく、小説のまわりの問題にすりかわることだ。 それは最終的に、中田英寿とオトモダチの作者の仕掛けをどう思うか、その意見を強要することにつながる。いわば、新聞と同じく、別にその記事に対してなんの意見もないけど、無関心は許さないという、極めて戦後民主主義的な強制参加を求められるのだ。
 だから、結末は出せないのだ。だって高校の多数決と同じなんだもん。無意味な議論は延々と続けられるけどね。でもこの人は、公平とか、進歩的とか装っているが、実はそんなこと考えてないで、「一人の天才だけががすべてを変える(自分を含む)ことができる」と考えているのだ。
 この矛盾した考えのため村上龍の小説はいつも空中分解せざるを得ないのだ。まあそこら辺に、彼の映画に対する永遠のコンプレックスがあるのかもしれない。「特権的な俺様が芸術的な映画が作れないはずがない!」そんなことないのは、証明されているいるんだけどなあ。
 あ、最後になるけど、本書は、「愛と幻想のファシズム」の構成に、「電脳ナイトクラブ」の会員となる中学生が出てくる話である。おわり。