サバイバー

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

 「ファイトクラブ」でそのヴィジュアルイメージの強烈さを読者に印象付け、ここ数年で図抜けた才能を見せてくれた 感のある作者が前作以上の、巧緻さで塗り上げたありとあらゆるFUCKOFFな文学に向けた挑戦状である。これを受け取るか受け取らないかはあなたの自由だが、 これを読まずして、今後の文学を語ることは無意味だと断言しておこう。
 たとえば、極東の島国では80年代の半ばごろ、高橋源一郎が「さよならギャングたち」でデビューし、「中島みゆきソングブック」へ向かったように、ある種の強暴さを放った読み物が存在できた。そのころの彼を国電の中で目撃したことがあるんだけど、座席に座り、肉体労働を糧にしていたことを物語るガタイのいいその身体を米軍放出のダーク・オリーブのジャケットに包み、ビニール製の袋を脇に、一心不乱に文庫本を読みふける姿は、人を寄せ付けない不機嫌さをまとっていた。その後、そのあたりの輩はテレビとかカラー写真がいっぱい載っている雑誌に取込まれてつまらなくなるんだけどね。いまなら中原昌也かなあ。あと、別な意味で梁日石。
 そういう居心地の悪さをぎりぎりのセンスに置きかえる趣味のよさ、「悪趣味」といえる露悪さでいえば、憐憫のかけらも無い不快さにこの小説は突き進む。スティーブ・エリクソンなどの、不幸な振りをした、心地よい予定調和とは違う世界を目指していることは確かだ。
そう、ストーリーだ。ストーリーが大切だ。物語は、いきなり、墜落しそうになっているジャンボジェット機の中で男が独白を始めるシーンから始まる。 この男は、集団自殺したカルト教団の唯一の生き残りなのだ。独特な世界における教義のなかで育った男は、ただひとり取り残される。それが、なぜジャンボ・ジェットにいるかって?彼の生涯がフラッシュバック形式で描かれて行く。
 これ以上は、楽しみを奪うので書けないのだが、資本主義の寓話、すべてがショーになる、不幸でさえも商品だという世界を道化ではなく、「ならざるを得なかった無垢」、恐ろしい言い方を敢えてすれば、 すべてを見てしまった子供という大胆な視点を持って語られる。それはイブリン・ウォーの「囁きの霊園」のような異邦人の受身の被害者的な立場ではなく、確信犯的な受身の加害者、「生まれたときから手は汚れている」存在を無理なく語り手として作り出している。そして、現実の不条理ではなく、不条理の現実を過不足無く浮き彫りにする。
 キーパーソンの女性が出てくるのだが、この全能の女性は、村上春樹をはじめとして、いまもだが日本の男性作家たちが描けなかった、「小説から遠く離れて」の蓮実重彦というか柳田国男の言葉を借りるなら「妹の力」を越えた女性として登場する。今後も日本では出てくるだろう、「曖昧な力をもった謎の女性」というのはすべて粉砕されるくらいの練られた登場人物だ。
 最後に言う、この小説がデヴィッド・フィンチャーによって映画化される前に読まなければならない。賞味期限つきの傑作である。