スパイダーマン3

わたしもジョージ・ルーカスと同意見ですぅ…。
http://abcdane.net/blog/archives/200705/lucas_on_sp3.html


語り口が、ハリウッド・メジャーの作品とは思えないんですよ。というかいまはこれくらいなのがフツーなのだろうか。
肝心なことをすべて、饒舌にセリフで説明してしまうので、観客は観るものがなにもなくなってしまうという、映画なのですね。自主映画ではよくありますが…。
だからアクションとドラマ部分がまったく乖離しているし、みんなその場の限りの感情なので泣こうが叫ぼうが、まったくこちらには届かない。
辻褄あわせで書いたシナリオがこういうことになるのは、よくあることだけど、あれだけ時間があって、監督自ら書いてああいう風になってしまうのというのは納得がいかないなぁ。
そういう恐れは第二作でも感じていたのですが、そこは怪人オクトパスにライミが感情移入できていたので、そこだけのドラマが深くなり見ごたえがあった。
でも元々、サム・ライミの語り口は、世界から外された登場人物たちの内に秘める感情がが、外に出ると一直線の軌道を描き、その激情のドライブ感のうねりで物語を進めるのが特徴なので、視点がいくつも分散しながらゆっくりと進んでいくドラマは不得手だ。しかもそれぞれを結ぶ因果の線が細く、後付け的ななんちゃって理由にしかなっていない。
運命であったり、偶然がもたらす糸がつむぎ出す物語が動き出す前に、セリフで感情と理由を説明して、それからそれを正当化するためのアクションに移る、まあご都合主義なのだ。今回はライミ作品に特有な、狂信的に凝り固まった感情で生きてしまい、そのお陰で自滅していく人物が登場しなかった。ホントウはピーターとMJがそれを担わないとならないが、大人の理由でそうはいかない。だが最初のシナリオはそうだったと思いたい。それをサンドマンが担うにはキャラクター設定が弱すぎる。
そう考えると、対比して無意識的天才なティム・バートンが、『バットマン・リターンズ』で、いかに難題をクリアしてきたかがよくわかるなあ。
今回は明らかにいろんなイベントを盛り込みすぎで、すべてを残らずクリアしているけど、しかし、あれだけの長さになっても、登場人物が描ききれていない。サンドマンとか勿体無いよね。もうひとりも最後までよくわからないし。
スパイダーマンや映画化されるアメコミの世界は、学校、友人、会社のありきたりな身近な生活社会を基調とすることで、観客に親しみを持たせようとわざと狭くしているようだけど、それゆえに人物間のドラマは拡がりようがない。展開が読めてしまう。もともとすべてのキャラクターが薄いというのもあるけど。
主役の二人がまったく動いてないんだよね、逆にすべてこうなった原因は、お前たちの痴話話のせいではないかと思えてしまう。ライミの自滅型キャラ造型が、敵側ではなくイヤなカタチでふたりに影を残しちゃったためだと思うよ。
アメコミ映画になに期待しているんだというのはあるが、なんでこんなになっちゃったのだろうか?