作劇術

作劇術

作劇術

新藤兼人シナリオライター、監督としての軌跡を辿るインタビュー本です。
その映画人生は新興キネマの現像場に潜り込むことからはじまり、美術監督を経てシナリオライターになる。戦後、松竹の脚本部を独立して近代映画協会を設立し監督をはじめる。同時に契約で五社の求めに従って多くのシナリオを書くというものだ。
個人的には新藤兼人の監督はともかく、シナリオは読んで流れるように上手いなあと思うし、他の監督がつくったものは観ていて気持ちが良い。まさに職人芸としか言いようがない。
しかし、多くコンビを組んだ増村保造の言葉によると、「新藤さんのシナリオには罠がある。一読うまいと思うけれども、凡庸な監督がそのまま撮ると凡作になる」というのも分かる。監督は流れるように読み易いシナリオを、もう一度自分の世界に作り上げないとならないから大変だったと思う。そうでないと読み物としてのシナリオに負けちゃうから。読み易すぎるシナリオは、書き込まれすぎた絵コンテとおなじくらい危険なものだと思う。みんな会議の席で、できた!と思っちゃうから。それはシナリオの出来であって、必ずしも映画の出来にすべてが貢献しているとは限らないから面白いものです。
ちなみに増村は、新藤が書いて吉村公三郎が撮った川端康成の『千羽鶴』をリメイクするにあたり、新藤に「そのままでいい」と言ったらしい。同じシナリオで撮られた両方の作品を観てみたい。
日活の中平康とは助監督のときからの付き合いで多くのシナリオを提供。特に初期の社会派サスペンスは今も評価が高い(じつは未観なのでなんともいえないですが)。
他にもマキノ正博(『待ちぼうけの女』)、鈴木清順(『けんかえれじい』)、川島雄三(『しとやかな獣』『青べか物語』)、三隅研次(『斬る』)などの監督について新藤から見たプロフィールや分析が興味深い。
特に溝口についてはシナリオライターならではの鋭い観察も出てきてあっと思った。

――溝口健二モンタージュを避けて、長回しをやりますね。
新藤 細かいカットを割らなくなっていく過程で生まれたのは、演劇効果というものだと言われますが、あれはシナリオの中で事物や人物の対立がモンタージュされているんです。溝口さんは、そのことを勘で分かっていたような気がします。

また五社や独立プロのそれぞれの社風の違いも語られていて、現場を渡り歩き肌で感じていた人ならですね。

――その(戦前の)大船調というものはどういったものだったんでしょう。
新藤 ひとつは物語に対する目線がありますね。庶民の哀歓や女性を主人公にした映画に特徴的に表れています。それは「諦観」というものじゃないでしょうか。「社会はそういうものだから、逆らっても仕方がない。人間はそれでも生きていこうよ」そういったものの見方。こういうのは、インテリ階級のものですね。だから戦意高揚映画には溶け込めないものがあった。厳しくいえば、それはもちろん反戦というものではなくて、戦争映画が下手だっただけで、唯々諾々と流されていくような空気でしょう。(後略)

――大映の特徴はどんなものなのでしょうか。
新藤 大船調が東にあるならば、西には大映調というのがありました。それは、けっこう泥臭いものなんだ。時代劇的な、芝居が大きな人情劇です。撮影所の気風も社員も気取っていない、大船よりむしろ実利的にいきたいという感じでしたね。

5日で1本シナリオを書き上げて、今も書き続けているというのにはびっくりさせられる。新藤は、シナリオとは、作劇の技術はもちろん、常に書きながら「自分」を発見していく。人間に対して興味を持ち続け、「自分」を削って、「自分とは何か」を見つめる。それがうまく行けばシナリオのシチュエーションに組み込んでいける。それが人間が描けたということだ、という。
うーむなるほど。でもそれは口でいうほど簡単ではなく実際には大変な作業だ。それでも興行的なヒット作も反対に個人的な映画も作り続けてきた人だからこそ語れる言葉なのかもしれない。そういう意味ではずっとブレのない人なのかもしれない。

――現実の事件がドラマを追い越しているように思いますが。
新藤 いや、どんな残酷なニュースでも、全て人間の所業ですからね。そのニュースや話題をどこから見るかというのが、シナリオライターの第一歩だと思います。殺人犯から見るか、第一発見者から見るか。一つの事象をどこから解きほぐしていくかが、シナリオでありドラマの発端なんですよ。やはり現実の世界から見ていくことです。(中略)映画監督は歳をとったら大変だけども、シナリオライターは考えることができれば書ける。これは大きいね。生き甲斐でもあるし、現実とあいまみれることが出来ますからね。シナリオライターは、俳句や和歌に逃げていく小説家のようにはいきません。現実に生きて切り結ばないとならない。(後略)

インタビュー、資料ともに充実しています。単なる映像作家主義でない戦後の日本映画を縦断して見直すには格好の本です。