レディ・イン・ザ・ウォーター


映画はかつてファンタジーだった。いやファンタジーというと語弊がある。いま目覚めてみる夢だった。
私が映画を観始めた70年代中期から後期の頃、映画はいつも現実の影を引きずっていた。子どもがちょっと背伸びをして大人の世界を垣間見る、そういうものが映画だった。そこに描かれている題材は、政治、戦争、人種、宗教、セックス、差別、貧困、歴史、風土、ジャーナリズムが散りばめられていて、決して学校の授業や友だちとの話題では出てこない、図書館に行って本を読み漁り、深夜ラジオに耳を傾けて、ようやく少し理解できるものばかりだった気がする。
ただの甘い砂糖菓子のような観客を慰撫してくれるような映画は無かった。興味がなかったのかもしれないし、ただそれだけの薄っぺらい映画は無かったと思う。
なかには小川徹のような、なんでも政治に絡める徹底した裏目批評などもあったが、素直にベトナム敗戦以降のアメリカを描いた作品には共感できるものが多かった。それは今考えるとあくまでも中高生の感性だったけど、訴えられた言葉は確かに伝わっていたと思う。
映画のなかで描かれるそれらのテーマと内容は、生硬な一方的な主張ではなく、飽くまでもエンターテインメントとして発せられていた。その面白さは、伝える技術と伝える作り手側の本気さがあったから、こちらに伝わったのだなと、今改めて思う。


涙腺が緩んできたのは、シャマラン自身が演じている書けない小説家(評論家)が、水の精ストーリーと出会いふたたび書き出すあたりからだ。そこから後はもうどうでも良くなった。そのまますべて受け入れてただ映画に委ねていく快感しかなかった。
バカバカしい、信じられない、説明不足だと言うかもしれない。確かに馬鹿げた話だ。信じられない話だ。現実に生き、おとぎ話が必要じゃない人には、どうでもいい映画なのだろうなと思った。いや“現実に生きていると思っている人”には、だ。
でもここでもっとも重要なことは、この映画が反戦映画であるということだろう。
今のアメリカの姿に控えめだが断固としてノーと言っているのだ。私は、ひとりの若い映画作家がこの現実の難しい時期にこの題材を選び、自分の作風の中でメッセージを熟成し、物語として展開して作品として完成させたことに対して大いに喜び、賞賛する。
いま目の前でリアルとされ、テレビや新聞で語られることは、本当に現実なのか?本当に大切なことは伝わっているのか?
バカバカしいおとぎ話よりも、ネットワーク局のニュースの方が真実は伝わっているのか。私はテレビの中の出来事の方がバカバカしく信じられない。
フィクションの持つ、寓話のおとぎ話の可能性と力をもっと信じても良いんじゃないか。フィクションでしかできないことを、ひとの想像力を。太古から民衆に伝わるおとぎ話、あるいは権力側、勝者から書き換えられて伝わる血塗られた神話の数々。どちらも今の眼から見たら信じられないものだ。しかしそこには、おとぎ話としてしか伝えられない真実、いままで伝えられてきた理由には真実の欠片が残っているはずだ。
これは控えめに絶望的にそれでも希望を持って伝えられるおとぎ話。根本的に映画ってそういうものだろうって私は思う。


舞台となるアパートの構造からは、ヒッチコックの『裏窓』が簡単に連想できる。そこに住む住人も『裏窓』同様に個性的であり、またほとんどが欠落家族だ(トイレから出てこない夫を抱える老夫婦を除く)。ここには、オール・アメリカン・ファミリーは存在しない。アメリカの理想とする美徳は無い。メディアでは、決して表に出ない数に入らない人々ばかりだ。もしここにハリウッド型家族が入ると、このおとぎ話は実は簡単に確実に崩れてしまう。そんな脆い構造を持った話なのだ。その繊細さがシャマラン映画の特長だ。
一歩間違えば、ニュースや新聞の中の数字や紋切調のカワイソウな人物にしかならない。そんな個性的になりようもない、ニュース価値も無い弱々しい人物たちなのだ。シナリオとしたらキャラが立っていない人物ばかりなのだ。そんな彼らをおとぎ話の構造にはめ込み、新たな役割を持たせることで、人間を描くというトリッキーなやり方を見出したと思う。
またハリウッド・コードの恋愛描写のかけらも無い。ヒーローももちろん存在しない。そこにはもっと大きなもの、シャマラン映画に特有な「祈り」または「信仰」に包まれた人物だけが確かに存在するだけだ。
ついでに言えば、B級映画の素材のやり直しだとも言われている、シャマランの映画の危うい構造。実ははスティーブン・キングが活字でやっていることと同じな訳であって、逆に言えば成功したキング映画とも言えないだろうか。
観ながら、これがシンプルな演劇であったら、もちろん充分に成立すると思うし、全然評価が違うんじゃないかな。いくつかのクリーチャーを象徴として表現したら、セットも人物も三一致に近い構成だから。いろんなことが際立ちと思う。
アメリカでコケたとか、ハリウッド映画にしては地味とか、ドンデン返しがないとか、そんな色眼鏡で見ていると多くのものが見えなくなる。いまさら『スプラッシュ』や『ニューヨーク 東8番街の奇跡』をやっても仕方ないじゃないか。増してや空虚なアメコミ型ファンタジーなど作らないことは、『アンブレイカブル』を観ればわかるじゃないか。
シャマランもスピルバーグと同様、ハリウッドでなくても監督ができる数少ないアメリカ映画人なのだ。
同時代の現実に対して、沈黙せず、斜に構えるのでもなく、空虚なファンタジーに逃げ込むのでもなく、正面から応える。映像を介したアメリカの語り部となり語り続けることだけが自分にできることだと明確に示した美しい作家の作品だ。