トランスアメリカ

普通にイイ映画でした。トランスジェンダーと親子の問題を絡ませて、アメリカ大陸を横断するロードムービーの形をとったアメリカ・インディペンデント系の映画。私はミニシアター系の映画は全然観ていないので、この作品がどういう位置にあるのかは分かりませんが。
観ている間、ずっとプレストン・スタージェス監督のことばかりなぜか考えていました。だらだらとメリハリの無いドラマのエピソードが次々と起こる。まあコメディなのかシリアスなのかという問いすらもう流行らないのかもしれませんが、それでももうちょっと観客の感情を引きずり回して欲しかった。適当に感動させて適当にクスリとさせておいて、あとは大切な問題なので映画では描けないから、みんなで考えて察してくれというのはムシが良すぎないか?
サンダンス映画祭系の作品のようで気持ち悪いです。独立プロだからもっとビシッとなにか言えないのかな。これじゃメジャー内独立プロ作品と同じだよね。(これも実はそうなのかな?)
いまは製作者は表現の必然から独立プロでやるんじゃなくて、メジャーで撮るためのマイナーリーグとしてのインディーズというのが常識なのか。
この手の映画なら、既にプログラムピクチャーで散々やっているし、もっと泣けるし考えさせて笑える作品ならたくさんあることを知っているから、今更深刻ぶった顔をされて芸術風に作られてもねえ、というのが正直なところ感想です。
昔からの譬えですが、ここでは「新しい袋に古い酒を入れる」ことをしている気がします。外側だけ今の風俗で新しそうに見えても、中身のアプローチに新鮮さまたは上手さが無いと、面白くはなりにくいと思います。
プログラムピクチャー的な部分を捨て去ることで、映画祭の受けを狙うインディーズ系が、評論家に受けて、メジャーに昇格(?)しても観客が楽しめる映画は作れないと思うのですが、そのあたりのフォーマットが世界中に行き渡っているのがいまの傾向ではないかと考えてしまいます。


ストーリーのなかで重要なはずのポイントが曖昧なまま描かれていない部分がとても気になります。死んでしまった母親の存在にだれもまともに触れようとしないのが不自然ですね。同郷の出身だというのにね。初めて会う息子がいままでどういう生活をしてきたのか、では父親が母親になるということはどういうことなのか。母の不在が隠されたテーマのひとつでキーポイントだと思うのだけど、シナリオは発展できる部分を無視して、状況として美青年が売春をしている、父は女になりたい、ということばかりを強調するのは、それ自身インパクトのある事象で描写だけど、それがストーリーと一体に沿っていかないのが不満です。
もはやストーリーの中でエピソードによって登場人物が成長するのは、古いと思われているかもしれませんが、私は全然そういうことはなくて、むしろ積極的に取り入れるべきだと思います。一本調子のシナリオを全能の神たる監督が弄りまわすだけではなく、古典的なストーリー、物語や人物たちの綾や因果、取り巻く世界を批評的に再構築することでもっと豊かな映画ができあがると思うのです。過日観た演劇の「アンデルセン・プロジェクト」を思い出すと、現代の映画の表現は、派手で露骨な表現(再現)のみに走り、結果映画表現の特性を捨てて、自然主義的リアリズムに進みながらどんどん退化しているように感じます。