アンデルセン・プロジェクト


http://www.parco-play.com/web/play/sept/andersen/
どこから書くのがいいのかな。まとまらないので箇条書きにしてみる。あとで書き直すと思います。書いていてますます混乱してきた、というかまともな言葉にならないぞ。




●実験的な装置や仕掛けに目を奪われるが、根底には古典的な戯曲の構成が見え隠れしている。


●ただ古典的な作劇を闇雲に踏襲しているのではなく、二重三重に倒錯して入れ子構造にして利用している。


●骨格がきちんとしているから、現代の意匠風俗をふんだんに入れても壊れないのではないか。


●舞台のハコの中のハコ。そのまま使うのではなく投射された映像によって無限に拡大したり、ミニチュアの箱に縮小したりする自在さ。単なる映像のフレーム(枠)で語られようとするのを、ホリゾントを付けることで回避、乗り越える空間ができた。


●映像で云えば、冒頭から、あと特にサーバーカフェのシーンが印象的だったけど、「見る=見られる」の観劇、鑑賞のパースペクティブを否定して、混乱のまま突っ走る試みが、劇の中にテーマと映像の関係がしっかりと意味を持っていると思った。ゴダールのビデオ映像みたいだ。


●見えている=直喩、見えない=暗喩、があるし、ものすごくわかりやすく出してきていると思うんだけど、いわゆる光の部分である直喩、「アンデルセンは童話の作家、世界の中心パリ、演劇界の殿堂オペラ座、国際的プロジェクト、子供はやさしい」は、すべて暗喩の基にひっくり返される。「子ども嫌いなアンデルセン、退廃の街パリ、資金と政治次第でひっくり返る芸術プロジェクト、子どもは残酷」。のぞき部屋(ていうか個室ビデオか?)はその象徴のひとつで、のぞく行為が、劇の中では観客からのぞかれる存在となる。


●逆に、本来ならオフの設定となる暗喩としての場面が、身も蓋もない直喩として登場することに混乱を覚える。そこに見えない存在のモロッコの青年が現われて、混乱はさらに増す。その前に観客は、「ドリアーデ」の物語を知ってしまっているから、彼にも重ね合わせてしまう。


モントリオールの作詞家が、見えているアンデルセンの、見えている国際プロジェクトを、見えない部分に光を当てようとすることで、見えなくして、結果自身を光から遠ざけ、見えない存在にしていく。彼の色素不足の設定は、光と影の見える直喩として浮かび上がる。


●影絵のシーンの語りは、オーソン・ウェルズの『審判』のピンホールアニメーションを思い出した。教訓劇でもありながら、劇中劇でもあり、光と影、直喩と暗喩が入れ替わる話。


●その混乱がないと、アンデルセン博物館のシーンに戦慄はしないだろう。フェティシズムだけなら、フェリーニの『カサノバ』や服とダンスするいくつかのミュージカルを想起できるが、空っぽ無機物の対象に対して、これは暗喩なのだと思いつつも、むき出しされた直喩として表現される様に驚くほど混乱してしまう。


●あからさまな性的寓話、艶笑話が、解放される暗喩として現われる。「のぞき部屋」「カウンセリングルーム」で表わされる。ここにいる私は観客なのか、一人芝居の向かい合う話し相手なのか、のぞき趣味なのか、カウンセラーなのか。




同時代人として、これだけのことを細緻に構成でき、かつ実験的な試みをできる人がいることを知り得たことが一番うれしいです。あとからじわじわ効いてきますね。