中国映画を支えた日本人 〜“満映”映画人 秘められた戦後〜



NHKETV特集。戦後の中国に残った満映の編集者、岸富美子さんを語り部にして、現代中国映画に満映の日本人がどのように携わったかを検証していく番組。
満映については、ロマンを含む様々な資料が出ているし、それは面白いものが多い。しかし、戦後については、すぐにフォーカスがボケだして鳥瞰することができなかった。例えば、監督の内田吐夢。彼の自伝を読むと、満映所長、甘粕が自決するまではよく出てくる話だけど、その後中国に残り、機材を疎開させたり、過酷な労働をしたりで帰国しなかった理由がよくわからなかった。またキャメラマン、西本正の著書「香港への道」に出てくる馬清守という人がどんな人か、この番組の中でインタビューを受け、日本語で語られるとなるほどと思う。また人形アニメーション作家の持永只仁が、政治風刺人形劇映画を作ったのを見て驚くとともに、彼の戦後の活動について「アニメーションギャグの世界」で読んだことを思い出し、色んなミッシングリンクが自分の中でちょっと繋がった気がした。
日本敗戦時、関東軍が逃げ、ソ連の侵攻を受けた中国東北部だったが、ソ連が引き揚げたあとは国民党軍と共産党軍が、その政治的軍事的空白地を狙っていた。満映もそのあおりを受け、共産党シンパの中国人が日本人の協力を求め、ここで満映共産党指揮下に入る。そして残る組と帰国組が別れた。加藤泰や撮影の吉田貞次らのちの東映組は、ここで帰国したんだと思う。
そのあと、内戦が激化するにつれ、北へと機材と共に撮影所は移り、最終的に日本人の炭鉱町だった鶴崗に「東北電影制片廠」が設立される。この疎開を指揮したのが、内田吐夢であったと自伝に書いてある。このときも赤十字による、帰国が進められたが、最終的に数十人が残った。そのときの駅での別れのフィルムが映されたが、笑って手を振っていた巨体の男は内田吐夢じゃないだろうか。その後内戦はさらに激化して、食糧難になり、映画製作もできず、炭鉱などへ肉体労働に駆り出される。内田吐夢自伝に書かれた過酷な労働はこのときのことだろう。
番組では、内田吐夢の名前はほとんど出てこないが、1949年の中華人民共和国の設立に向けて、啓蒙、教育、ニュース、劇映画の技術協力に日本の映画人がどのように関ってきたかが明らかになってきて驚く。
1954年に内田吐夢を含む全員が帰国する。しかしほとんどが赤化教育を疑られ現場に復帰できなかった。内田吐夢東映に復帰できたのは稀な例だと言えるだろう。
北京に建てられた「中国電影博物館」には、「東北電影制片廠」に協力した日本人技術者たちの名前が展示されている。

追記:自伝等によると、内田吐夢は、肉体労働から撮影所に戻って来て、岸とともに編集を中国人技術者たちに教えていた。