陰謀と幻想の大アジア

陰謀と幻想の大アジア

陰謀と幻想の大アジア

著者は、国際陰謀史観を日本に当てはめて見る。しかも戦前の日本だ。キーワードは満州国、反ユダヤ、回教、騎馬民族説、シルクロード大東亜共栄圏だ。
これらの胡散臭い言葉は、いまもカタチを変えて生きている。なぜか。戦前と戦後を連続して捉える歴史のダイナミズムを戦後の日本が持ち得ずに、その出生を隠して無邪気に戦後を過ごしてきたからだと指摘する。京都学派が戦前、戦中行ってきたフィールドワークは、辺境の諜報活動と無縁だったと言えるのか。騎馬民族説や日ユ同祖説の根底には、日本人の優位性が隠されていなかったのか。その根源を問わずにいまみえる現象だけを見ているから、歴史に耐えられる説ではなく、また逆にすぐに陰謀、怪文書がどこからともなく現れてては消えることが起きるのだろう。
明治以降、脱亜入欧を掲げてきた日本は、シベリア出兵(ロシア革命時期)に、はじめてユダヤ人に遭遇する。祖国を持たない民族に触れ、逆に日本とはなにかと考えはじめたのではないかというのが、著者の推理だ。
日本人が外部にアイディンティティを求めるのはいまにはじまった話じゃない。それが、政治、軍事、宗教、アカデミズムが絡まると巨大な陰謀が出現するから不思議だ。
ロマンと言えば聞こえは良いが、幼い妄想と言い換えることもできる。いまの視点からみると往時の考えの多くは、極めて世界的な視野に欠けていたかを痛感する。ただ、その集大成が太平洋戦争であったことは事実だ。そして、それが戦後も脈々と生きていることも事実だ。