『キル・ビル』をもう一度行くか?

明日は1,000円デーなので『キル・ビル』をもう一度行くか?
なにはあともあれ、これは“映画”なんだよね。そういう匂いがプンプンするの。映画のふりをしているなんか別の大きなDVDみたいなのが多いなかでさ。
これだけ、CGだPVだのの誘惑があっても、環境としての映画館を意識して作れたのは大したものだと思う。それは舞台が日本だから邦画チックな部分が多いのでそう感じるのだけなのか?タラの他の作品じゃ全然そんなこと感じなかったからね。
でもホント徒花映画が好きだよねえ。まさかこんな映画を嬉々として作る人間が出てくる日が来るとはねえ。
敢えて書くと、元ネタの70’映画群って、作り手たちが作りたくて作っていた映画じゃないのに、出来上がったらオモシロカッタという、偶然の(やけくそともいう)作用みたいなものだと思う。だから子供の頃にはじめて観たらびっくりしてトラウマになるが、オトナが冷静にいま観直しておもしろいかというとそんなことはないだろう。と発言する私はオヤジか?
さらに言うと、それらの元ネタは作り手(タランティーノ)の糧にはなるが、観客の糧にはまったくならない。作者はココロザシがものすごく低くて、自分のオリジナリティなど何一つ考えていない。期待しているタランティーノ印はどこにも存在していない。それでも映画は出来ている。これをなんといえば良いのか?タラの新作か、単なるパクリか、それとも妄想なのか。
この映画を成立させているのは、ある時代の徒花映画の再現であり、個人の映画体験のトラウマの再現だけなのです。
これは最初から何一つ新しいことをしようとしていない、最初から行き詰まっている映画なのです。そのことを前提として作っているため、評論も作家性も拒否している映画なのです。もっと言えば、大衆娯楽である映画の一般性を否定しているのです、と書くとまた話は戻って、これは映画なのか?という問題に行き着くのだけど、感じる過去のブルーな時代を思い出させるイヤーな映画らしさは何に起因しているのか。私と違う世代はどう感じるのでしょうか、気になる。
もし、レンタルビデオを自分の好きに繋いで、音楽を勝手に付けたら、こういう感じになるのか?才能は別として個々人のトラウマキルビルはできるのだろうか。