帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画

帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画

帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画


大変な労作です。500余ページあるんですが、面白くて一気に読めちゃいました。日中戦争から太平洋戦争へと至る15年戦争の時分を軸に映画界ではなにが起きていたのか。いかにして国策国威高揚映画はできたのか。それを映画作品、係わった映画人、映画評論家、映画法を草起した検閲官僚らの発言を含む徹底的な資料の読み込みと内容整理によって見事に論証している。
いままで断片的なエピソードでしかなかったり、戦中の行動をぼやかしていた部分が繋がり、いかに小津溝口黒沢も例外ではなく、戦後書かれた書物では、いかに彼らが反戦厭戦を唱えて軍部に反抗していたかなど言われているが、この本から鳥瞰すると、映画人らが当時の国策の流れに巻き込まれて政府の意図に従った映画を作ってきたかがわかる。
たとえば黒沢明の場合『姿三四郎』は戦争とは関係の無い娯楽作品ではなく、時流に合った精神主義がテーマにあり、『一番美しく』は工場の増産奨励を目指す政府の指示のあった時期に作られた。『虎の尾を踏む男たち』は敗戦間際の空襲で疲弊した、国民の精神的苦痛を和らげるために出された、娯楽映画を作れとの命令に従ったものの一本だったので、なぜあの時期にエノケンのコメディが作られたということがよく理解できた。会社からの企画と出来あがった作品とは別という意見もあろうが密接な関係があることも確かだろう。
原節子にしても戦後のお嬢様のイメージしかないが、戦時中にかなりのプロパガンダ映画に、ヒロインとして出ていることがわかる(ちなみに義兄はバリバリの戦争協力映画監督、熊谷久虎)。
太平洋戦争期の精神主義映画はいつも同じパターンを持っていて(a)未熟な初心者(b)修行者(c)卒業者(d)武士とその神聖な任務(e)死による成就という展開になっている。それは、なにも知らない初心者が、軍隊で揉まれ修行し卒業して一人前の軍人となり、任務に就き戦場で死んでいく、という構成を持つ。
うぶで無邪気な男が、非情な現場の現実に出会い成長して、任務に忠実な大義のために戦うマシンとして死地に赴く。このお馴染みの展開は、いまでもアニメとかゲームとかマンガとかの、いわゆる幼いヒロイックなストーリーで見られるものだよね。
そのとき主人公に敵対する現実主義者がいて、それに対して主人公は「やればできる」という根拠の無い精神論で立ち向かい、みな一丸となって最終的には奇跡的な勝利を収める(神風ですね)。その間に男女のチョコチョコっとした恋愛話が入ったりする。これってさあ、いまも「プロジェクトX」をはじめとする感動バラエティの常套的な作り方だよね。日本人の心性なのかなあ。ぞっとしない?
映画法にしても映画界が自ら進んで巻き込まれて行った感も否めないと指摘する。それは河原乞食と揶揄され、社会的に相応の位置を与えられていなかった映画界が、この法律により国家のお墨付きをいただき、映画人が登録制度により、地位と雇用の安定を得たのが大きいという。まあ日本社会全体が翼賛体制によりすべての国民が組み込まれていった時代ではあったが。
著者は戦前と戦後を分けて考えるから、物事が見えなくなるという。確かに15年戦争からいままでをひとつの流れにしていくとその中で変わったもの消し去ったものとして転向や戦争協力の否定、変わらないものとして官僚のモノの考えが浮かび上がってくるのがわかる。その連続性は現在に通じるイヤなものがある。
さいきん外国映画の輸入制限(クォーター制)とか政府による助成金とかで国が介入して日本映画を保護しろみたいなことも言う人があるようだけど、(井筒がテレビ喋っているのを見たが)わたしは反対だね。
そんなことをしたら役人が出てきて碌なことにはならない。官僚は一度掴んだ既得権益は絶対に手放さないし、カネを出す(クライアント)なんだから、どう考えても口出ししてきて事前事後検閲するに決まっている。どーせ公序良俗映画しか許可されないようになっていくんだからね。そこらは昨今はやりの自治体ヒモ付き観光映画(あとはなぜかアニメね)をみればわかるでしょ。役人の考えるイイ映画の定義とはそんなものですよ。昔も今も。
ちなみに数々の戦争映画を作らせ検閲を合法とした、映画法の第一条も、立派なものでした。

本法は国民文化の進展に資する為映画の質的向上を促し映画事業の健全なる発展を図ることを目的とす(原文カナ)