遊撃の美学

遊撃の美学―映画監督中島貞夫

遊撃の美学―映画監督中島貞夫

中島貞夫ってほとんど観てないんだよね(いつもこんな言い訳ばかりしている気がする)。
発見はなんで倉本聡が『くノ一忍法』のシナリオを書いていたのかというのと、監督と同窓生だったからなのか。なーんだ。
いまも残っている作品が多いということは普通に面白いということなのだろうな。
実録路線を支え、ピラニア軍団を売り出したといっても深作欣二ほどの印象が残っていない。しかしながら実録路線は、それまでの任侠路線でアタマを押さえつけられてきた、三四十代連中が一気に爆発した勢いの産物だということがわかる。
インタビューを読んでいても、笠原和夫が言っていることお互い都合の悪いところは180度証言が違ったりもするので、脚本家と監督は永遠に和解できないものなのだなとも思う。どっちもエエカッコしということなのですがね。
竹中労との『浪人街』リメイク騒動については、ほーそうなんだと事実が露見する。竹中労は映画のアジテーターだけど、映画の作る側の人じゃないことがよくわかった。
読後の感想としては「この人は頭のいい人なんだなあ」です。たぶんに映画監督にならなくともやっていけるタイプの秀才だと思う。たまたま東映という映画という商品を作る会社に入ったということではないか。その意味では狂気はなく理性が勝っていてバランス感覚を持っている人なのでしょう。その意味では監督自身が強調する、シーンの演出は役者の「アンサンブル」を大切にするという言葉にすべては集約されるのでしょう。
プロデューサー的な感覚を持っていると思うのですが、アカデミズムの方に行ってしまっているので残念。
もう少しビデオで観てから色々書いてみたいと思います。
最後に時代劇映画について語った部分がわたしの最近考えていることと妙にシンクロしていて驚いた。

■中島 (前略)最後っ屁としてはね、時代劇やってみたいなってのはあるんですよ。特に京都映画祭をやってみて非常に強く実感したのは、時代劇が何で駄目なんやというときに、やっぱりおっさんが臭い芝居をしてんだというのが一つのイメージになっちゃっている。第一期黄金時代なんかでも、たとえば『長恨』(26)ね。伊藤大輔さんも大河内傳次郎さんも二十歳代、十何分立ち回りやってます。それから錦ちゃんの十何本並べてみた。若いやつに受けたのは何だと言うと、大作じゃないんですよ。沢島さんのものとかね。たとえば『殿さま弥次喜多』シリーズ(58-60)だとか、それから『薄雪太夫より 怪談「千鳥ヶ淵」』(56)だとか、こっちは若いやつに受けてんだよ。拍手湧くんだから。錦ちゃん二十歳代よ。結局ね、おっさんじゃないやつが、やっぱりエネルギーを発散させてる。ドラマツルギーなんて変わりゃしないんだから。むしろ肉体をとことんぶつけていくといったら、時代劇チャンバラに敵うジャンルはないです。あらゆる映画のなかでね。つまり自分の感情と、情念とアクションってのが本当に同一化して画面のなかで暴れ回るってのは、よう考えたら、ほとんどないですよ。(略)モーションとエモーションの同一化みたいな。そういう見せ方をやっぱり作る方が本気になって、そうだと思い込んでやれればね。ただ役者を探すのが凄く難しいと思うけれども、素材ってのは幾らでもあるような気がするな。(略)たとえば、新選組の下っ端だと、武士階級じゃないけれども、新選組、面白そうやから、ふらっと入っちゃったと。使い走りやってんだけど、刀振り回しちゃったというような設定だったらね。あるいは股旅物って難しいけれども、そういう設定だったら、チャンバラなんかきちっとしたものじゃなくてもいけるわけでしょ。そういうことで何か出来ないのかなというね、非常にまだ茫然としてるんだけど。