大菩薩峠 完結篇

1961 :森一生
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20269/index.html

東映片岡千恵蔵内田吐夢に対しての、大映市川雷蔵三隅研次森一生。原作を読んでいないけど、あんな長い小説をまとめるにあたって、両者ともに引き出してくるエピソードがほとんど同じというのが不思議だね。切り詰めていくとそういうことになるのかもしれないけど。
大菩薩峠にはじまり、奥多摩から江戸に、多摩の郷士新撰組と京都に向かい、京都から佐幕の天誅組に加わり逃れ、伊勢に渡り、船で遠州から甲府に移り、亡き妻の実家で最期を迎える物語は、わが子の待つ大菩薩峠には辿り着かない。地獄めぐりと巡礼、地蔵菩薩の慈悲という遠大なテーマが浮かび上がるのはさすがだなあ。果たして涅槃に辿り着くのかというところで終わってしまうのだけど。
今回観ていると、原作のテーマであろう、因果応報というか大乗仏教の教えね、これがなんともよく見えてきた。
主人公が動かず、周りが余計なことをするために深みにはまり、どんどん不幸の連鎖反応が起きる構図ができて、後半自動的に物語が動き流されていくので、結果として雷蔵がどんどん存在感を無くしていくのですね。
東映の場合は良くも悪くもスターシステムなので、またあの悪役がやっているよと定番の善と悪の対決になるのでそんなものかと流しちゃうんだけど、大映ではそのあたり知らない役者なので逆に新鮮でリアルに物語が浮かび上がってくる皮肉がある。
主人公の机龍之介の悪としての存在が、途中から彼自身の意図を越えて、無限地獄の世界が動き始め彼自身も止められなくなりやがて諦念へと変わっていくのが雷蔵の持ち味とうまくマッチしている。
千恵蔵の場合は、その悪の世界(現世地獄絵図ですな)をあがきまくるモンスターとして造型されるのに対して、雷蔵が運命に抗し難く滅亡へと進むその対比があった。
それは第三部の無関係な水車小屋の少女を殺すというシーンで頂点に達する。ここを観て連想したのは『フランケンシュタイン』の検閲に引っかかった例の少女を湖に投げ沈めるシーン。無垢と残虐とのパースペクティブが一気に崩壊する瞬間だ。いまでも充分に衝撃的だ。映画表現のギリギリのモラルなのだろうね。子どもを意味なく殺すシーンを入れないというのは、そこは崩しちゃいかんという芸能のタブーなのかもしれない。
それはともかく一人三役を演じきる中村玉緒の凄まじさよ。この三人は別人だけど同一人物という恐ろしく難しい役柄なのだけど、見事に演じきっている。これが成功しているので映画のテーマがググッと真正面に出てきている。翻って内田吐夢版の方ではいうまく出なかったのはなぜだろうか。女が描けないのだろうか?わからん。
こんな豪華な映画がさ、通常プログラム枠で出来ていたんだからなあ。参るよ。内藤昭の美術もため息だし、山本富士子は重要人物なのになぜか第三部から突如消え去るしね。
大映特撮による洪水シーンの凄さもびっくりしたあ。あと大映って海のシーンになると琵琶湖ロケになるのね。向こう岸に比叡山が見えていておかしい。幻の伊藤大輔による『大菩薩峠』が観たかったねえ。伊藤大輔は映画化のためにすべてを投げ打ってこのためだけの会社を興したのだから。まあ色々深いですわね。