芸術はバクハツだ!!

Date: 2003-12-14 (Sun)
で、行ってきました、川崎市岡本太郎美術館小田急向ヶ丘遊園駅から見える小高い里山が生田緑地で、そこを登っていくと途中に民家園とかプラネタリウムとかがあって(今回はスルー)、その間をさらに散策するとどんづまりに斜面にはめ込まれたように地形をうまく使った建物があり見上げると建物の屋上広場の奥に立像があるが、これが近くに行かないとわからないがバカでかいのです。岡本太郎だ!という感慨が改めて湧きます。
常設展示を見て思ったのは、タローって人は直感的な部分よりも、パリで民族学を勉強してそれを持ち帰り日本に当てはめて、土俗縄文沖縄を発見して…という流れが見えてくる。私にはどうしても太陽の塔芸術は爆発だのイメージがあるんで、モダニストの流れなのかなとずっと思ってきたんだけど、けっきょくは西欧人には日本という古代文化(プリミティブ・アート)の継承者であるが、日本人には商業的(コマーシャル)に前衛芸術家という風に自分を見せていた(セルフプロデュース)のではないかと思ったね。どうも内面から迫ってくるモノがいまひとつないんだよね。
さらにその想いが確信に変わったのは、続きの企画展、「肉体のシュルレアリスム 舞踏家土方巽抄」の部屋に入った途端に感じた空間の気迫というか佇まいに圧倒されたからだ。単純に四角い部屋が4つくらいあるだけで、岡本太郎の凝った内装デザインとは全然違うのだけど、空間の想像力の濃密さがね、たとえば朝倉摂の舞台美術のシンプルだけど埋め尽くされた気迫ってあるでしょ、そんなカンジ(わからんかなぁ?)。
舞踏については門外漢なのでなにも言えないですが、往事のポスター、チラシ、土方の演出ノートなどの生々しさが、情報が横溢する時代の前、手に入る美術書の絵をこうじゃないかと独自に解釈したりして、限られた情報のなかで想像力をめいっぱいに使った果てにあらわれた表現が、独自のものに昇華されていたという偶然の作用であって、東北とか土着というのが、アタマのなかだけで考えられたものでない、肉体と思索が自らと不可分の存在になっていく過程がオモシロイ。
それに共鳴する同時代の芸術家たちが作り上げていく、舞台オブジェ、イラストレーション、小説とも渾然一体となっていく様が立体的な展示に拡がり興味深い。
個人的には土方に影響したという作品として展示してあった、フランシス・ベーコンの作品と、ハンス・ヴェルメールのプリント数葉がココロ惹かれました。
トータルで感じたのは、いろんなことを考えるにあたって日本の悪食文化というのを外してはいかんと思うのですよ。教科書には絶対に書かれないことですが、その思考回路を受け入れないとガイジンの目でしかモノを見ることができないと思う。
マンガが浮世絵の流れとかあるにしても、世界でも独自な存在であり日本人にしか作り上げられないモノに昇華していったという事実があるじゃん。あと西洋文化を目標にしたにもかかわらず、まったく日本的なものに変容した、ゾラとかありのままに見ることを是とした「自然主義文学」が、単に貧乏病気おんなの三大要素だけの「私小説」になってしまったり、インドの仏教が土俗宗教と繋がり神仏習合の独自のものに変化したりする。
やっぱタローとかの西欧史観者は純粋なものを求める、縄文が日本の源流だという風になるんだけど、ものごとってもっといい加減に偶然に雑多ですわな。
モノをつくる人間が、理論とか学者の部分が勝ると碌なことがない。そこら辺を全部引き受けた(もちろん極東の日本に生まれたということも含めて)、土方のほうが時代が一回りしたあと、時代のフィルターから解放され、逆にある種の透明感を獲得したことと大きく関係することは必然ではないだろうか。
もちろん「ドメスティック=インターナショナル」などという単純な図式のことを言ってはいるのではないけどね。かといって一方では「人類の進歩と調和」を「東北からの出稼ぎ」が万博を作ったこともまた時代の事実として視野にいれとかないとならないとは思うが。まあ見学者としての権利で勝手に妄想するだけのことですが…。