THE PLANET OF APES 猿の惑星

  THE PLANET OF APES 01 ティム・バートン(新宿文化2)

 あまり書くことないというのが正直なところだけれど、ティム・バートンにはアクション映画は無理だった ということかな。もともと彼のつくる映画には簡潔という言葉からは程遠く、ねじれたユーモアをじっくりとひとつひとつ置いて行くというのが特徴だ。そこにはまったく物語を進めることとは無縁の所作しかなかったと思われる。そういう意味では、シーンのスペクタクル化が表現できる点で現代作家ということができる。
しかし古典的なハリウッドスタイルの時間の節約方法を押し付けられた結果、自身と物語のどちらを優先するかというジレンマに陥ったために映画が混乱した。まあ普通こういうのは作家の初期に起こることなのだけど、 バートンの場合はいままでその個性を放っておかれていた。デヴィド・フィンチャーの場合、『ゲーム』での惨敗がこれに相当するといえる。いわばかれらは、切り替えしの画面の積み重ねで物語を語ることができないのだ。
 だからアクションの基本である、逃げる追うのニ点の距離感による緊迫感が演出できないといえる。だからかれらの村からの逃走や、人間対猿の戦いのシーンなど、距離感が「うそジャン!」ということになる。『スリーピー・ホロー』のアクションシーンのときも同じことを感じたけれど、サスペンスがでないのね。箱庭的なセットをうその空間つなぎして見せることにまったく興味がないのだろう。そのあたりは、うその空間の広がりに命を賭けているテリー・ギリアムとは対照的だ。
 ものがたりのことは書かないけれど、これでわかったのは、ティム・バートンは、映像によって物語をねじ伏せる、ヒチコック、ロン・ハワードに至る系譜ではなく、どちらかというと、 NY演劇界出身のシドニー・ルメット、ノーマン・ジェイソンなどに近いと思う。ようするに、ワン・セット内での演出の充実ということだ。尤もそのなかでの映像処理が卓越していることはバートンの特徴なのだが、その演出の保守さ加減が今回は足を引っ張ったのではないか。
まあこの物語とシーンのスペクタクルの両者を解決しているのは、ポール・ヴァーホーベンくらいで、その次にキャメロンとスピルバーグが並ぶかどうかだな。
(角田)