殺人の追憶

殺人の追憶 [DVD]
生まれてはじめて放り込まれた外国が韓国で、1987年、この映画の事件のはじまりと同じ時だった。戒厳令の解かれたソウルは騒がしくも垢抜けない地方都市にも似た感があり、人々が肩を怒らせて慌しく行き交い、翌年に控えたオリンピック工事がどこでも行われていた。学生デモには出遭わなかったが、地下通路を通ると催涙弾のガスの残りが溜まっているのか鼻腔がつんとした。ある日の昼間繁華街を歩いているとサイレンが鳴った。確か空襲訓練だ。人々は淡々と整然と屋外に地下へと潜り込む。何気ない日常の風景に見えた。入ったデパートの地下階で、みな静かに待っていた。地下飲食店の片隅のケンタッキーフライドチキンの店舗の赤と白の看板がやたら場違いに思えた。
観ていてラストに向かうとなぜか涙が止まらない。画面にはむさくるしい無骨な男たちしか出てきていないのに。これは日本の高度成長期みたいな時代だから田舎のこういう事件が描けるとかいうだけの問題ではないと思う。
ただただシナリオがドラマを描き、伏線、小道具、という脚本の技術を駆使し、演出はそれを最大に生かしながら映像ならではの表現を追及する。すべては観客を魅了するために奉仕されている。その肝を外していない。こういうのが映画だ。この隙の無い上手さが監督のセンスなのだろう。
視線の有効性というか人物と人物のぶつかり合いがドラマという当然のことが、最初からラストのまなざしに至るまで珍しく見る=見られるがきちんと撮られていた。当たり前のドラマを真正面から映画=娯楽(エンターテインメント)という姿勢(枠組み)で、少しも逃げずに徹底的に描ききっている。その力量を見せてくれる。そこにまず感動するのだと思う。往時の風俗を再現するだけで努力賞と息切れする映画が多い中、うまく有効な背景に落とし込んで利用している。それでいて登場人物たちと観客たちが生きている時代の証として的確に押さえていると思う。最後の問いかけの視線が客席に向けられることで、観客も目撃者として、事件を忘れ時間を閉ざし歴史の中に追いやるのではなく、現在まで連続した時間の中ある、事件は終わっていないと深く位置づけられるのだ。そこには韓国の現代史の忘れ去られた過去という二重の意味があるのだろう。
まだね、細かい部分についてはよく理解できていないと思うのでもう少し考えます。