ねじまき鳥クロニクル

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

 1980年代初頭にYMOが音楽をはじめとしてあらゆる部分を席巻した時に、近田春夫がかれらの人気にについて「YMOは、逆輸入の左ハンドルの日本車だ」と喝破した。そして90年代、小室哲哉が徹底的にそれを、大量生産可能なものとして以来、音楽はなにか別のものとなってしまった。
 村上春樹についても同じことが言える。かれを構成していた、スティーブン・キングレイモンド・チャンドラーの手法の翻訳と、蓮実重彦の「小説から遠く離れて」で言及された、「不在と妹の力」によるストーリーの骨子が、80年代的であったかどうかは、90年代の沈滞がそれを物語っているとは言えないだろうか。
 コムロテツヤ的な部分は、肥大化したミステリー分野に吸収されて、より日本的な文体に拡散され (馳星周宮部みゆき)、もう一方の翻訳の部分は分厚いだけのエンターテインメントに行きついた(小野不由美瀬名秀明)。
 そこには、村上春樹の出番はあるのだろうか。政治や風俗にコミットしているようかにみえて、実はノスタルジーとセンチメンタリズムに変換していった手法は限界に来ていることは本人がわかっていたと思う (かれのエッセーが保守的・通俗的なのをみればそれがわかるだろう) 。
 結果かれは、同じものがたりをだらだらと書きつづけることを選んだ。小説家としてではなく、村上ブランドとしてファンを慰撫することに徹することにしたようだ。
 ここには、謎の過去の事件や、謎の金持ち、ひとが良いけど結果なにを考えているのかわからない主人公、失踪する女性、かれを助ける変わっているけど美しい女性が出てくる。「羊をめぐる冒険」から「世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド」へと続く小説群と同じだ。かれのファンであるなら、期待は裏切られない。ただお得意の固有名詞の羅列は止めたようで、逆に、それが時代を80年代の話のように思わせている。