続 住民が選択した町の福祉 問題はこれからです

 99 羽田澄子BOX東中野

 NHK-BSで、羽田、土本典昭、松川八洲男、それに文部官僚評論家、寺脇研の出たシンポジウムがやっていた。終盤、観客席から質問が飛んだ。「ドキュメンタリーにおいてビデオの可能性についてどう思われますか?」出席者一同は、それまでの(良く見るドキュメンタリーの意義について語る作家)の勢いとは違って、あいまいな笑みを浮かべて言いよどんだ。 「確かに、フィルムにはこだわっているが、ビデオは、長く回せて融通が効くし、安い」というようなことを次々と述べた。それは、否定とも肯定とも言えない歯切れの悪い回答だった。 そこには、テレビに対する優位性、フィルム=映画へのこだわり。上映という手段で動員することが、テレビという不特定多数を相手にするものとは違う、「運動としての映画」を生み出すという信念だろう。
 このようなテクノロジーに対する敗北、戦略の無さが、岩波文化人(市民)に消費される映画になり、興業としても、生活の手段としても成立しなくなる悪循環を招いているとも言える。対する権力もなく、そこに共感する観客も作れなくなった現在、ドキュメンタ
リーの存在意義は問われ、情報ニュース番組と境界はますます曖昧になる。もっと、テクノロジーを活用するべきだと思う。それが作家の武器ではないだろうか。
 ビデオだから映画だからというのは、問題を対立にしか持っていかず、何一つ本質的な問題を訴えることはない。(もちろん、だからといってテクノロジー史上主義がいいとは言わない)
 僕流に言えば、平野勝之の作品が面白く、『A』がつまらないのはそこの問題をどう捉えているかの差なのだが。
 ドキュメンタリーの手法も世代交代があるべきではないだろうか。サティーの曲に、女性ナレーションに、愚直なまでのインタビューは、もう流行らないのではないか。水俣三里塚の「ドキュメンタリー=運動」から古屋敷、そして羽田澄子の「ドキュメンタリー=記録」の時代を経て、次の時代に行こうとしている。誰もがビデオカメラを持てる時代、作家は何をすべきか、まさに問われていると思う。
 (角田)