「天皇」と呼ばれた男

「天皇」と呼ばれた男―撮影監督宮島義勇の昭和回想録

「天皇」と呼ばれた男―撮影監督宮島義勇の昭和回想録

キネマ旬報に連載されていた当時、キャメラマンの自伝というのに延々と東宝争議の話が続いていたので、ナンダコレハとずっと思っていた。単行本化された本書でも全体の約2/3の分量が東宝争議に当てられて執拗に細かく書かれている。争議の中心人物だった彼の証言は貴重で説得力があるし、一方で、日本映画の裏の歴史、師弟関係でなく思想関係である労働運動からみた人の繋がりというのも見えてきて興味深い。


島義勇は、松竹の現像場を経て、新しく設立されたPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー)に入り、フィルムの乳剤の研究をすることから映画人生がはじまった。別にキャメラマンになりたかったわけではないが、PCLが映画技術の研究所から映画製作にシフトしたので、キャメラマンになったという変り種。だから学究肌で、撮影光学理論を翻訳したり、論文を書いたりした。その集大成が戦前に発刊された「映画撮影学読本 上下」で、確か撮影部出身の石井輝男監督がすごい本だと言及していたのがこの本だったと思う。若い頃から宮島は日本映画の撮影技術では確固たる地位を築き、業界では一目置かれていた存在だったことがわかる。
セットでの様子は、まず照明部にセッティングを全部やらせて出来上がると、おもむろに「全部消すんだ!それは照明じゃない、イルミネーションというんだ。これから俺がライティングを教えてやる」といって、すべてやり直したという。監督よりもエライ天皇だった。


東宝争議の様子が微に入り細に入り描かれているが、のちに新東宝に分裂するきっかけになる「十人の旗の会」の大河内伝次郎やアカ嫌いの渡辺邦男監督や助監督だった古沢憲吾ら会社側についたメンバーとのやり取りの様子がドラマチックだ。「来なかったのは戦艦だけ」という伝説の第三次争議のあたりの緊迫感はドキュメントだ。だれが裏切り者で、会社の誰が切り崩されたとか、そういう生臭い話が整然と語られている。
結局、東宝が宮島を追放できなかった大きな理由は、宮島がいないと日本映画の撮影技術が10年遅れると云われていたからだ。
あと読んでいてよくわからなかったのが、果たして日本共産党の指示がどれだけあったのか、その辺りの言いにくい部分はぼやかされた印象がある。わたしの知識の足りなさもあるが当時の労働運動、政治の世界はわからないことが多いし、わかろうと思わないほうが良いかもしれない。


この東宝争議や各映画会社のストライキの様子は、マキノ雅弘自伝「映画渡世 地の巻」を読み返すと別の方面から見えて面白い。東宝経営陣は製作を中断してまで争議に勝とうとしたので、封切り新作が無くなった。当時追放されていた小林一三が、裏で動いてマキノ雅弘を呼んで宝塚で映画を作らせて、東宝に買い取らせた。その激務を乗り切るためにマキノはヒロポン中毒になった。数年前の松竹撮影所のストライキのときには、従業員代表として城戸四郎と渡り合ったのに、今度はまったく正反対の立場になったカラクリがわかって唖然とした。すごいよマキノ雅弘。また宮島もマキノは資本家の犠牲になっただけだと責めていない。


それはともかく、東宝争議の後、宮島は日本共産党本部に入り、のちに中国に渡り(もちろん国交の無い時代だ)日中間の貿易再開について周恩来と会談したりしている。
その後、党の指令で映画界に復活し、(「大日本映画党」のマキノ光雄のいた)東映小林正樹新藤兼人吉村公三郎大島渚らと独立プロで撮影をしている。(共産党からはのちに離党することになる)。
影技術への自信は彼の独壇場だったようだ。独立プロが使えるように国産の35mmキャメラ、土井ミッチェルの開発にも係わった(現場では本物と違い使い物にならなかったとの声もある)。
また『戒厳令の夜』では、はじめてスーパー16方式で撮影して35mmにブローアップすることを試みる。当時スーパー16のフォーマットは開発されていたが、専用のキャメラがなかったので改造して作り、現像所と一緒にスーパー16方式の技術を確立した。
併行して70年安保の記録映画『怒りをうたえ』を製作をはじめる。昔は文芸座で当たり前のようにやっていたんだけどね、わたしは観たことはないけど。いまはまったく知らない人が多いのではないか。さっきネットで検索したら、昔ながらの左翼言論ページが出てきて驚いたよ。読むのに耐えられなくてすぐにやめたけど。(興味のある方はさがしてください)。
赤穂城断絶』『仕掛人梅安』に萬屋錦之介の希望で参加したあと、宮島は晩年、国鉄千葉動労の記録をライフワークにしていた。


編者の山口猛により、自伝の間に関わりのあった監督ら関係者の証言が入るので、エピソードが立体的に描かれていく。
降旗隆男が助監督のときに教わったのは「ロケーションでは十六以上は開けない。なぜなら草や木の葉が陽の光に照らされてキラキラとすることがあるだろう。それをフィルムに写しだそうとしても、絞りを十六以上開けると、そうは写らない」「ライトが少ない時の夜間ロケは煙を焚かないと、あらゆるものが真っ黒になって何も写らない。ばかばかしい方法だけども、奥に煙を焚いて、そこにライトを当てると前のものが浮かび上がって、暗闇でも遠近感が出る」「汽車とか動くものを撮るときにはパンをしたくなるだろう、だけど動くものを撮る時には逆にキャメラを動かさないほうがいい」
読み終わって、私はたぶん宮島の撮影した作品はほとんど観てないことに気付いた。あまり興味がわかない映画が多かったせいもあるが、いまの流行の映画史では浮上しづらい人だけど、日本映画の歴史では多くのことを成し遂げてきた伝説の男ということがよくわかる。下駄履きで現場に入る姿は終生変わらなかったという。

島義勇フィルモグラフィー


切腹』予告編

『怪談』予告編