ポストモダ〜ン

「ポストモダニストは二度ベルを鳴らす」って評論本を読んでいるんだけど、まあそんなに面白い本じゃないが、この文章にはちょっと考えさせられたよ。

ウンベルト・エーコはベストセラーになった自分の小説の起源を説明するために、『「薔薇の名前」覚書』という明快な小書をものにしたが、その中にポストモダニズムを寓意風に表現したしゃれた箇所がある。
ポストモダニストが取る態度を、彼はこう定義する。
「それはちょうど、教養あふれる女性を愛しているのに、面と向かって『君に首ったけなんだ』と言えない男の態度のようなものだ。
なにしろ、この台詞がすでにバーバラ・カートランドの恋愛小説で使われていることは、二人ともよく知っている。しかも相手がそれを知っていることを、お互いに知っており、さらに彼女がそこまで知っていることを彼は知っているのだから。」
エーコは先を続ける。
「それでも解決策はある。『バーバラ・カートランドの台詞じゃないが、ぼくは君に首ったけなんだ』と言えばいいのだ。こう言えば、偽りの純真さを装うこともなく、また純真に愛を語ることなど今や不可能だと明言した上で、それでもなお、相手の女性に思いのたけを余すことなく伝えたことになる。
つまり、彼女を愛しているが、その愛は純真さが失われた時代の愛だということを。そして、もしその女性がこれに調子を合わせてくれるなら、彼女のほうも万事承知の上で、その愛の告白を受け入れたことになるだろう」

(原文無改行。改行は引用者が適宜しました)


ホントーかよ?でも自分がこのような事態のときにこれを回避して他の表現ができるかというと、うーん疑問だよなあ。
70年代の後半か80年代のアタマに別役実が書いた文章で、アンケートの質問の答えに、1.はい 2.いいえ 3.わからない とあると皆 3.わからない を選ぶ時代になっているという趣旨があった。
それまで質問に対する答えというのは、「はい」か「いいえ」しか無かったのに、第三の選択肢が皆の求める答えになっている不思議さ。それは時代を遡れば、「ナンセンス」あるいは「賛成の反対の反対なのだ」というあたりから始まるのだろう。
で問題は、ポストモダーンな態度だ。さっきの例に倣えば今は、1.はい 2.いいえ 3.わからないけど知っている となるのではないだろうか。情報化社会的な態度と云ってもいいか。
「わからない」というのは、二者択一を拒否して、「はい」「いいえ」という答えを無効にする手段でもある。質問する側と答える側という関係を問い直し壊していく作業。それは同時に「私」という主体と判断を消し去る行為でもあり、自分をそこにいないヒトに仕立て上げようとする態度である。要するに訊ねたら答えが返ってくることでコミュニケーションが確立するということを疑うことなのだ。
「わからないけど知っている」というのは、そういう意味では本来、答えとしてはおかしく正しくないはずだけど、現実には会話の中でも成立しているよね。いわば「判断無き情報」。だからみんな「わたしって○○なヒトだからぁ」と言う。自分は消え去りわからないただ情報だけがある存在または態度。(あるいは器官ですかね)
なのでいくらたくさんの「情報」を並べても「正解」には到達しない。それは元々「わからない」が進化したものだから。いわば情報は「わからないけど知っている」ことだから(「わかって知っている」のは知識だと思うがそれは別の話)。それは本当は意見(答え)とはちがうはずだが、現実には意見になっていると思う。なぜなら問いに対する正当な私の答え(3.わからないけど知っている)だからだ。
もはやお互いに、3.の答えを言い合うことでしかコミュニケーションは成立しないのだろうか。