フランソワ・トリュフォー

フランソワ・トリュフォー

フランソワ・トリュフォー

映画監督というのをはじめて意識したのが、『未知との遭遇』のスピルバーグで、その次がドン・シーゲルデ・パルマ。そして監督によって映画が作られるという考えを決定的にしたのがトリュフォーの『アメリカの夜』だった。
トリュフォーについては、彼の映画を観て、彼自身の著作と山田宏一の著作を読み、最後にこの本を読むと、人間トリュフォーと監督トリュフォーの姿を一致させることができる。内容もトリュフォー自身のメモ魔、手紙魔として整理された資料を基に徹底的に書かれている。そして二人の著者たちの憶測が入らずに編年体で書いているし、著者の姿勢も一本筋が通っているので安心して読める。


彼は日本では映画と女性に生きた男として紹介され、その姿は今でも鮮烈に描かれるゴダール像と較べると、曖昧な日和見主義者とされ続けていたと思う。本書では特に日本では知られていない私生活の部分についても丁寧に書かれている。
悲惨な少年時代の実態。彼の本当の父親はだれか。フランスといえば政治を抜きに語れないが、彼は政治の季節にどのようにコミットしたのか。フランス国内とアメリカをはじめとする海外での評価と資金集めや興行活動。どうやって映画を作り続けたのか。またゴダールとの決別についても細かく書かれている。女性好き女優好きの伝説は本当なのか。
全作品についてもどのようにシナリオが書かれ、資金を集め、キャスティング、撮影、編集、公開して、その収支はどうだったのかまですべて細かく網羅されている。
私が興味があったのが、いまでは常識になっている、インタビューにカセットレコーダーを使いそれを文字に起こし記事を書く手法は、当時としては画期的で、彼が「カイエ・デュ・シネマ」ではじめたということ。だから「カイエ」の監督へのロングインタビューというのは当時のひとつの売り物のひとつだった。監督の息遣いが聞こえるような文章は、それまでの文芸的映画評と一線を画すものだった。ここにもヌーベルバーグの息吹が見て取れるのではないだろうか。
また数多くの映画評を書いた「アール」誌が右寄りの雑誌で、そこの花形執筆者でしばしば一面を飾ったということ。そこにはジャーナリスティックな感覚にとても優れていた気鋭の記者の姿が見え、そのあたりが監督になったあとでも彼が新聞の三面記事のスクラップをして映画のネタを作り上げていたことに繋がるのだろう。
彼が果たしてどんな人物であったのか。彼がヒッチコックのように注意深く、他人から驚かされないように生きてきたことは確かだろう。彼は自分を消し去り、映画と同一化しようとしていた。しかしもうひとつのゴダールというベクトルが彼を映画に埋没することを許さなかった。常に比べられ何かを言う事を期待されたし、ゴダールに比べてトリュフォーは…という文脈で語られ続けた。
でも彼はそれを甘んじて受けながら自分の筋を通した。その最たる証拠が、全作品自らプロデュースして自ら監督したことだ。雇われ仕事はひとつもない。もし作品が興行的に当たりそうもなかったら、さっさと公開前に次の低予算映画の撮影を始める。こんなB級映画精神を自らに課しながらも常に自身の作家主義を失わなかった。その意味では、彼は成功した稀有なアメリカ50年代映画監督なのだ。ゴダールは単にそれを美学上のスタイルとして模倣発展したに過ぎない。
ロジャー・コーマンが成し遂げて、コッポラが成し遂げなかったことと言えば分かり易いかな(逆にワカランって!)。
その意味ではトリュフォー進歩主義者なのだろう。その趣味趣向が古典主義者だとしても自ら執筆した「フランス映画のある種の傾向」または「ヌーベル・バーグ」という理論を体現し発展させたのだから。
トリュフォーはホークスのように聡明で、ルノワールのように寛容に役者の影に隠れ、ヒッチコックのように周到なので、クッキリとした足跡は見つけにくい。敢えて一言でいうなら20世紀の職人でありモラリストなのだ。
「これは肉体的な愛の映画ではなく、愛についての肉体的な映画である」と、トリュフォーは『恋のエチュード』について語ったと書かれているが、これほどトリュフォーの映画について適切な言葉はないと思う。師であるルノワールの官能ともヒッチコックの官能とも違うトリュフォーの官能がこの言葉にあるのではないだろうか。彼を新たに語るときはここからはじめないとならないだろう。今後慎ましやかな彼の時代が来るとはなかなか思えない。しかし「すべてを始め、最初に行った」のは彼だ。それを忘れてはならないだろう。
そのことを再認識することができる本だ。読み終えて、私の中の彼の肖像を完成することができたと思う。
「わが人生、わが映画」復刊してもらって多くの人にぜひ読んでほしい。(私は持ってます!)