近頃考えたことですが

デイヴィッド・J・スカルの「モンスター・ショー」を読んでいてある記述にぶつかり、あっと思った。大体こんな意味だった。“優れて成功したアメリカ小説はみな同じあるカタチを採っている。「いつまで経っても大人になりきれない現実社会では役に立たずにバカにされている男が、現実にはありえない得体の知れない世界の事件に巻き込まれていくと、その無垢さを武器にして戦い乗り越えようとしていく物語」だと”。
どう?なにか浮かばない?わかりやすいのだとスティーブン・キングの小説はみなこの構造を持っている。いつまでも売れない小説家が怪物やエイリアンなどが出てくる異世界の事件に巻き込まれていくが、彼にしかその正体はわからない。「IT(イット)」などわかり易すぎるよね。他にもアメリカン・ハード・ボイルドと称される小説はみなこれじゃないかな。うらぶれているが孤高の私立探偵が巨大な陰謀が渦巻く事件に巻き込まれて一匹狼の掟に従い解決していく。
さらに時代を遡るとサリンジャーやアップダイク、カポーティもその変奏にあると思う。舞台が南部や東部の名家のハナシになったりするが。もっと言えば失われた世代はモロそうじゃないかな。ヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルド!そして最後はマーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険」まで行き着くのではないか(読んでないけどね…)。
まあ青年が社会の壁にぶち当たり挫折するというのは古今東西、小説のモチーフ殿堂入りNo.1なことは確かだけども、「大人になりきれないコドモ」というのがポイントだ。欧州の場合は「教養小説」という青年が試練に遭いながらそれを乗り越えて大人になっていく様を描くジャンルがある(あった?)よね。でもアメリカの場合はいつまでも大人になれない(ならない)=無垢というトンデモない方程式が成り立っている。この構造をスカルは「ゴシック・ロマン」の形式に則っていると喝破する。ここでいきなり物語の枠組みが中世を舞台とした御伽噺に飛んで行っちゃうのです。単純に言っちゃうと、「無垢な若者が悪者や怪物たちの支配するおどろおどろしい世界を冒険する物語」なわけですな。そんなバカなと思うでしょうが、このメンタリティがアメリカ人のどこかに巣食っているのではないかと思う。
ただね、この「アメリカン・ゴシック」の形式をちょっと反転してみると、実は西部劇の世界になるのですね。理想に燃えた無垢な青年が西の荒野に向かい得体の知れないインディアンや無法者たちを相手にやられる前に殺るアメリカの神話の世界。
実は「アメリカン・ゴシック」と「西部劇」の両者は互いを補完してしていると思う。無垢で傷つきやすいが故に正義で守られている永遠の若者。被害者意識と加害者意識の混在。無垢という優しそうな言葉の裏には、「免罪」というものが隠されている。つまらん例えで申し訳ないが、ロバート・B・パーカーやミッキー・スピレーンのように敵対する相手は何人殺そうと構わないが、愛犬が死んだら涙するという世界観はまさに一致するように思える。
イーストウッドの映画とくに『ミスティック・リバー』の曖昧さが日本人にはわからないのは、その辺りがあるのだと思う。ハリウッドが世界に発する自由で明るいアメリカから離れて、まともにアメリカ社会を描写しようとするとものすごく暗くおどろおどろしい世界に突入してしまうのは、ホラー映画の影響だけではなく、元々文化のなかに含まれている「ゴシック」的な土壌のためではないだろうか。連続殺人鬼やXファイルの世界と相性が良いのも単なる都市伝説との関連だけでなくここら辺に下地がありそうだ。
またハメット=チャンドラー=マクドナルド・スクールが初期の短編の手荒いドンパチから、次第に長編では陰鬱な化け物じみた金持ちたちの話に移行していくのもこの「アメリカン・ゴシック」の様式美がどこかで深くかかわっているのではないだろうか。要はアメリカ自体を描写しようとするとこのような形にならざるを得ないということ。
その一方で子供の無垢を売り物にするスピルバーグやキングが、どんなに金持ちになろうと変わらずジーンズを脱がないポーズをしていないと許されない社会。逆にマイケル・ジャクソンというモンスターが許される社会のメンタリティがある(これは一般市民がどうこうということではなく、アメリカ版東スポの「ナショナル・インクワイラー」がどうゴシップを報じているかというレベルのこと)。
というわけで表面(メディア)の帝国としてのアメリカでは、大人になっていく儀式は注意深く忌避されているような気がする。逆に言えばそれがクリアされればいつでも冒険は成立する仕掛けになっている。それを最大限に生かしているのがどんな荒唐無稽も許されるハリウッド映画の魅力でもあるわけだけど。


うーんかなり粗い論考だなあ。バカハナシとしてはおもしろいと思うけど。もうちょっと考えますネ。