ゾディアック

フィンチャーの映画について前から思っていたけど、その考えが決定的になったのは、オープニングの新聞社のシーンだ。ゾディアックの手紙が届くのと、主人公が出社する風景のカットバック、誰が撮っても格好良くなるはずのシーン。観客が映画にぐいぐいと引っ張られるはずのシーン。これが決定的につまらないというか弛緩しているのだ。
要するにモンタージュがまるでダメだということ。
デヴィッド・フィンチャーは、一枚一枚の画を作るのは上手い。ただそれが編集されるとなんともつまらない。いや、今回注意して観ていたのだが、ことごとく繋がっていない。これは完成を計算して撮影をまったくしていないということだろう。しかも、画の完成度に拘るためにマルチカメラ方式を取っていないから、余計カットのつながりに違和感がある。良く作りこまれた画であっても、映画が面白くならないのはこのあたりにも原因がありそうだ。
今回はデジタル化された撮影を観に行った。確かにかなり良くなっているが、ヴィデオらしいところが何点かあった。殺人現場の住宅街の奥にタテ構図で遠景に街のネオンが見えるところは、フィルムなら写らないのに、人間の視覚に近い感じが面白かった。ただ直射日光が当たるシーンは頂けない。全体のトーンを曇天に統一しているので、白に飛んでいるのが美しくない。これがヴィデオのラチュードの限界なのか?一度にヴィデオとバレてしまう。同様に室内のシーンは、暗い部分の細部は写ってはいるのだけども、影の落ち方が美しくないなあ。
現場でモニターを見ていると「あーこんなに暗いのによく写っているなあ」という部分でOKが出ているんじゃないだろうか。逆にそこで、どこかを強調して照明でタッチをつけようと補光すると、逆に全体が上がっちゃってバランスが崩れるのではないか?その結果、自然主義的な明かりのバランスになってしまうと思われる。見た目それっぽいが、仕上がるとメリハリが足りない画面の仕上がりになると言うこと。ヴィデオの狭い階調の限界なのかしらん。
観ていながら、ずっと『ゴッドファーザー』『インテリア』『大統領の陰謀』の撮影監督ゴードン・ウィリスの照明のことを考えていた。トップライトと間接光を利用した、大胆かつ繊細な照明。果たしてあのような照明がまだヴィデオだと表現しきれないような気がする。
だからヴィデオならではの、生な表現が部分が面白かったのだと思う。容疑者の工場の休憩室での尋問のシーンなど、顔の皮膚のディテールまで、体臭が匂ってきそうな雰囲気が、蛍光灯照明下に表現されるところは白眉だろう。反対にトレーラーハウスの部分は、自然光の逆光が美的に使われるために、肝心な異臭が感じられない。
その意味では、DVDで観るとすごく面白いのかもしれないです。